論ナシゴミキャラの判別方法
投稿者: wakarannjin 投稿日時: 2003/03/09 19:15 投稿番号: [1444 / 18519]
俺は論ナシゴミキャラにはレス付ける趣味はありません。(第一、アウェーで議論していてゴミまで手が回りません。)
そんな論ナシゴミキャラが必死に四の五の屁理屈をこねくり回しているようですが、下記の新事実に対する直接的な反証をするつもりもないようですし、これからも無視し続けるでしょう。
独島博物館よりコピペ
『島展望ロビーにはいわゆる「島根県告示40号」が実際告示されなかったことを証明する日本の官報及び新聞資料が集中的に展示されている。この展示物は第2展示室の展示内容と繋るものである。 日本は「無主地先占論」の根拠として彼らが1905年2月22日独島編入事実を告示したという 「島根県告示40号」を取り上げている。しかし、この告示が実際告示されたという証拠は現在探すことができない。
一番目、まず島根県庁に告示が掲示されたという1905年2月22日、島根県報と訓令報にはどこにも「島根県告示40号」の内容がない。それのみならず当時日本政府の官報においても「島根県告示40号」という告示は掲載されなかった。最後に日本にただ1枚保管されている「島根県告示40号」の原文は告示用ではなく回覧用である。それでは1905年2月22日独島編入事実が告示されたという証拠はどこにもない。 二番目、独島不法侵奪約3ヶ月後に行ったロシアバルチク艦隊との海戦で勝った日本は当時 海戦状況官報号外と新聞に載せた。どころが、1905年5月29日と30日発行の官報号外には3ヶ月前に告示されたという 「島根県告示40号」の内容が反映されなかった。即ち、告示を通じて「竹島」に名称が変更された独島を依然と以前の名称である「リヤンコルド岩」で指称した。また 1905年5月30・31日〜6月1日に掛けてバルチク艦隊との海戦の勝利を伝えた当時の日本新聞も 等しく独島を「竹島」と言わずに、「リヤンコルド岩」と表記した。この新聞の内容は当時日本の聯合艦隊司令官である東郷平八郎の報告電文を資料に作成されたものである。
それでは、告示が行って3ヶ月も過ぎているのに日本政府の官報発行機関と連合艦隊の司令官、そして日本の新聞、皆は「島根県告示40号」という告示の存在を知らなかったこと、即ち 独島の日本領土編入事実を知らなかったことになる。「竹島」という名称が日本官報に現れたのは1905年6月5日、以前の官報号外が修正されて以後であり、日本の新聞も同じく訂正記事を掲載した官報が出た後一斉に「竹島」という名称を使い始めた。
以上の事実は独島の領土編入が極秘裡に進行された不法的なものであり、いわゆる告示というのはごく少数の人のみが読み回した回覧に過ぎないもので、決して告示として存在しなかったことを証明してくれる。もしこの告示が日本の主張とおり明らかに告示されたものであればそれを 証明することは日本の分である。 しかし、日本はまだこれを証明できる資料を提示しなかった。結局、日本が韓日間の独島領有権論争において明白であり唯一な近代法的証拠として先に立たせる 「島根県告示40号」は国際法のみならず国内法的にも全く法的根拠のないものであり、むしろ所謂「合法的領土編入」は実は「不法的強制占領」であった事実を反証する明白な証拠資料になる。』
そんな論ナシゴミキャラが必死に四の五の屁理屈をこねくり回しているようですが、下記の新事実に対する直接的な反証をするつもりもないようですし、これからも無視し続けるでしょう。
独島博物館よりコピペ
『島展望ロビーにはいわゆる「島根県告示40号」が実際告示されなかったことを証明する日本の官報及び新聞資料が集中的に展示されている。この展示物は第2展示室の展示内容と繋るものである。 日本は「無主地先占論」の根拠として彼らが1905年2月22日独島編入事実を告示したという 「島根県告示40号」を取り上げている。しかし、この告示が実際告示されたという証拠は現在探すことができない。
一番目、まず島根県庁に告示が掲示されたという1905年2月22日、島根県報と訓令報にはどこにも「島根県告示40号」の内容がない。それのみならず当時日本政府の官報においても「島根県告示40号」という告示は掲載されなかった。最後に日本にただ1枚保管されている「島根県告示40号」の原文は告示用ではなく回覧用である。それでは1905年2月22日独島編入事実が告示されたという証拠はどこにもない。 二番目、独島不法侵奪約3ヶ月後に行ったロシアバルチク艦隊との海戦で勝った日本は当時 海戦状況官報号外と新聞に載せた。どころが、1905年5月29日と30日発行の官報号外には3ヶ月前に告示されたという 「島根県告示40号」の内容が反映されなかった。即ち、告示を通じて「竹島」に名称が変更された独島を依然と以前の名称である「リヤンコルド岩」で指称した。また 1905年5月30・31日〜6月1日に掛けてバルチク艦隊との海戦の勝利を伝えた当時の日本新聞も 等しく独島を「竹島」と言わずに、「リヤンコルド岩」と表記した。この新聞の内容は当時日本の聯合艦隊司令官である東郷平八郎の報告電文を資料に作成されたものである。
それでは、告示が行って3ヶ月も過ぎているのに日本政府の官報発行機関と連合艦隊の司令官、そして日本の新聞、皆は「島根県告示40号」という告示の存在を知らなかったこと、即ち 独島の日本領土編入事実を知らなかったことになる。「竹島」という名称が日本官報に現れたのは1905年6月5日、以前の官報号外が修正されて以後であり、日本の新聞も同じく訂正記事を掲載した官報が出た後一斉に「竹島」という名称を使い始めた。
以上の事実は独島の領土編入が極秘裡に進行された不法的なものであり、いわゆる告示というのはごく少数の人のみが読み回した回覧に過ぎないもので、決して告示として存在しなかったことを証明してくれる。もしこの告示が日本の主張とおり明らかに告示されたものであればそれを 証明することは日本の分である。 しかし、日本はまだこれを証明できる資料を提示しなかった。結局、日本が韓日間の独島領有権論争において明白であり唯一な近代法的証拠として先に立たせる 「島根県告示40号」は国際法のみならず国内法的にも全く法的根拠のないものであり、むしろ所謂「合法的領土編入」は実は「不法的強制占領」であった事実を反証する明白な証拠資料になる。』
これは メッセージ 1430 (wakarannjin さん)への返信です.
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