>尼港事件
投稿者: nishina3777 投稿日時: 2004/03/18 21:36 投稿番号: [5912 / 43168]
1920年1月22日
赤軍過激派約300は対岸から渡河し尼港に攻撃を開始するも日本軍守備隊に撃退された。
1月24日 過激派からの軍使が講和を求めてきたが、守備隊長石川少佐は提案を拒否し、日本人自衛団とともに警戒を厳重にした。全般情勢が不利なうえ、師団主力との連絡が途絶えた日本軍守備隊は上級司令部からの訓令もあって2月24日 一時妥協が成立し、休戦協定の協議に入った。
しかし過激派軍は市内に侵入するや、停戦協定を無視し、白系ロシア軍将校や有産階級者たちを投獄、虐殺し略奪を行い、治安は一気に乱れた。
3月8日になり、石川少佐と石田寅松副領事は過激派指揮官を訪ね協定違反を抗議したが、逆に12日正午を期限に武装解除を要求してきた。
日本軍は在郷軍人自警団を会わせて約400名、赤軍は叛旗を翻したロシア軍、労働者を含めて約4000名に膨れ上がり、市内各所に陣取っていた。
武装解除に応じないと見た過激派が13日を期して総攻撃をかけるという情報を得た石川少佐は、12日0200を以って夜襲を敢行することに決し、過激派司令部に先手の奇襲をかけた。緒戦の市街戦は成功したが天明とともに過激派軍は勢力を増し、その猛攻を受けて死傷者続出、中隊兵舎まで後退を余儀なくされた。
13日には領事館守備兵は戦死、石田副領事は家族とともに自決した。包囲された中隊兵舎では、河本中尉以下50名が4昼夜にわたり奮戦していたが、17日歩兵第27旅団長から、無益な戦闘を中止するよう赤軍経由で訓令が届けられ、訓令に従って戦闘を中止した。
投降した日本軍官民はその後武装解除され投獄された。
一方日本軍による尼港救援活動は既に開始されていた。5月になり奪還作戦が開始されると、不利を悟った過激派軍は撤退を開始、撤退に先立つ5月25日には全市街を焼き払い、市民数千を虐殺、収監していた日本人136名をも皆殺しにした。
ちなみにこの虐殺直前の4月29日にウラジオストックで日ソ会談が行われ、日ソ停戦協定(五月協定)が締結されたばかりだった。
この事件は「尼港の惨劇」として世界中に報道された。病人、一般居留民を含む虐殺事件だけに日本人のうけた衝撃は大きかった。
日本人死者は軍人351名、居留民384名の多きに達した。赤軍過激派に殺害されたロシア市民は数千にのぼる。
第二次大戦後、数万の日本人を抑留したソ連邦政府は尼港事件が日本人の共産主義化の障害になっていると判断し、国際部副部長コワレンコなどが尼港事件の正当化工作をすすめ、それを進歩派日本人が押し広めた。
そのためか、歴史教科書にも尼港事件の正確な記述はほとんどないし、平凡社世界大百科事典によれば、(尼港事件の)非は日本側にあることをソ連邦代表から論証され、(日本政府は賠償)要求を撤回した、などと書かれている。(筆者井上清)
1月24日 過激派からの軍使が講和を求めてきたが、守備隊長石川少佐は提案を拒否し、日本人自衛団とともに警戒を厳重にした。全般情勢が不利なうえ、師団主力との連絡が途絶えた日本軍守備隊は上級司令部からの訓令もあって2月24日 一時妥協が成立し、休戦協定の協議に入った。
しかし過激派軍は市内に侵入するや、停戦協定を無視し、白系ロシア軍将校や有産階級者たちを投獄、虐殺し略奪を行い、治安は一気に乱れた。
3月8日になり、石川少佐と石田寅松副領事は過激派指揮官を訪ね協定違反を抗議したが、逆に12日正午を期限に武装解除を要求してきた。
日本軍は在郷軍人自警団を会わせて約400名、赤軍は叛旗を翻したロシア軍、労働者を含めて約4000名に膨れ上がり、市内各所に陣取っていた。
武装解除に応じないと見た過激派が13日を期して総攻撃をかけるという情報を得た石川少佐は、12日0200を以って夜襲を敢行することに決し、過激派司令部に先手の奇襲をかけた。緒戦の市街戦は成功したが天明とともに過激派軍は勢力を増し、その猛攻を受けて死傷者続出、中隊兵舎まで後退を余儀なくされた。
13日には領事館守備兵は戦死、石田副領事は家族とともに自決した。包囲された中隊兵舎では、河本中尉以下50名が4昼夜にわたり奮戦していたが、17日歩兵第27旅団長から、無益な戦闘を中止するよう赤軍経由で訓令が届けられ、訓令に従って戦闘を中止した。
投降した日本軍官民はその後武装解除され投獄された。
一方日本軍による尼港救援活動は既に開始されていた。5月になり奪還作戦が開始されると、不利を悟った過激派軍は撤退を開始、撤退に先立つ5月25日には全市街を焼き払い、市民数千を虐殺、収監していた日本人136名をも皆殺しにした。
ちなみにこの虐殺直前の4月29日にウラジオストックで日ソ会談が行われ、日ソ停戦協定(五月協定)が締結されたばかりだった。
この事件は「尼港の惨劇」として世界中に報道された。病人、一般居留民を含む虐殺事件だけに日本人のうけた衝撃は大きかった。
日本人死者は軍人351名、居留民384名の多きに達した。赤軍過激派に殺害されたロシア市民は数千にのぼる。
第二次大戦後、数万の日本人を抑留したソ連邦政府は尼港事件が日本人の共産主義化の障害になっていると判断し、国際部副部長コワレンコなどが尼港事件の正当化工作をすすめ、それを進歩派日本人が押し広めた。
そのためか、歴史教科書にも尼港事件の正確な記述はほとんどないし、平凡社世界大百科事典によれば、(尼港事件の)非は日本側にあることをソ連邦代表から論証され、(日本政府は賠償)要求を撤回した、などと書かれている。(筆者井上清)
これは メッセージ 5911 (yuukounotubasajp さん)への返信です.
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