さすが朝P♪
投稿者: dylake2r5j1 投稿日時: 2006/03/03 09:43 投稿番号: [33089 / 43168]
久々朝Pらしいネタににんまりです( ̄ー ̄)
とりあえずツッコミ拠は多々ありますが、慰安婦の強制を云々言ってる人たちが
この証言程度のものを根拠としているのであれば、全く話にならない。
http://www.asahi.com/kansai/kataritsugu/OSK200603020051.html
韓国 元慰安婦たち、静かに寄り添って
ソウルからバスで1時間の広州(カンジュ)。小雪が舞う町はずれの山あいに「ナヌムの家」はあった。ナヌムとは「分かち合い」。日本軍に性暴力を受けた元慰安婦9人が助け合い、静かに暮らしていた。
◇
「やっと平穏な生活を手に入れることができた」。李玉善(イ・オクソン)さん(78)はオンドルのついた8畳ほどの個室で編み物をしていた。「家」に来たのは6年前。戦後55年間、連行先の中国で暮らしていたという。
「無理やり連れて行ったうえ、戦争が終わっても、ほったらかし」。編み物をやめ、語気を強めた。
韓国南東部の蔚山(ウルサン)で、住み込みのお手伝いとして働いていた42年、大通りを歩いていると、背の高い男2人に突然、両脇をつかまれた。トラックに放り込まれて両手両足を縛られ、口をふさがれた。連れて行かれたのは中国東北部の延吉。電気の流れる鉄条網に囲まれた飛行場で草刈りや滑走路の掃除をさせられ、食べ物は小さなパンだけだった。
「こんな所では働けない」。抗議すると、3畳ほどの部屋が並ぶ土やれんがの建物へ。風呂に入れられ、着物や足袋、げた、布団を渡された。「これはお前らの借金。稼いで返せ」。その日から「トミコ」と呼ばれ、兵士らの相手を強いられた。
多い日は40〜50人が列を作った。ある時、階級の高い兵が入ってきた。避妊具を使おうとしないので拒むと、殴られて短刀で腕を刺された。
戦争がいつ終わったのかは知らないという。ある日、日本兵が「ここは危ない。一緒に逃げよう」と山に連れ出した。だが、女性たちを山に残したまま去った。山を下り、知り合った北朝鮮出身の男性の後妻になった。子どもはできなかった。
「もう一度、家族に会いたい」。夫が亡くなり00年、韓国に戻った。両親はすでに亡くなり、自分の死亡届も出されていた。生きていると認めてもらうのに2年近くかかった。
「慰安婦を認めようとしない日本人は、私たちが死ぬのを待っているんじゃないか」。李さんの言葉は、取材する私の胸に突き刺さった。
◇
李さんの隣の部屋で暮らす金君子(キム・グンジャ)さん(79)。「私は天涯孤独。この世に生きて、何も残すものがない」と、硬い表情で天井を見つめた。
幼い時に両親が死んで養女に。17歳の時、家に朝鮮人2人が来た。「工場で働かせてあげる」。列車で連行されたのが旧ソ連国境近くの中国・琿春。慰安所だった。
「ジュンコ」と呼ばれ、日本兵の相手をする毎日。「死にたい」。首をつったが、ひもがちぎれて未遂に終わった。そのアザを見つけた日本兵が殴りかかってきた。日本語で返事できないと短刀で足を刺された。
ある日、銃声がやみ、飛行機の音も聞こえなくなった。日本兵が「お前ら好きにしろ」と言う。慰安婦たち7人で40日ほど、祖国を目指して歩き続けた。畑で大根を盗んで食べた。手をつないで中国国境の豆満江を渡った。一番端の女性の手が離れ、流された。誰も助ける力がなく、じっと見ていた。
故郷に戻ったが養家には帰らず、友人宅に居候した。連行を知っていたはずなのに何もしてくれなかった巡査の養父に、不信感を持っていた。
数日後、昔の恋人が訪ねてきた。すでに結婚していたが、「親のために結婚した。一緒に住まないか」と告げられた。部屋を借りて同居したが、3カ月後、恋人は周りから責められ自殺した。
恋人の子を身ごもっていた。生まれた女の子は5カ月後に死んだ。働いたり寺で修行したりと、各地を転々。ナヌムの家にたどり着いたのは98年のことだという。
「慰安婦を知らない人が増えた。日本だけでなく韓国でも……」。金さんの顔が一層悲しく見えた。
◇
「行きましょ」。取材後、李さんに食事に誘われた。日本語だった。人生を変えた日本。本当は私の顔を見ることも、日本語を聞くことも嫌だろうと思っていただけに、ちょっと救われた気がした。だが、彼女の日本語は植民地支配の証しでもある。過酷な体験と今も続く偏見に、口を閉ざす元慰安婦もいる中、李さんと金さんは服をめくり上げて傷跡を見せてくれた。「歴史の事実を忘れてほしくないから」と語り続ける彼女たちは、今も日本の戦争と闘っている。そう感じた。(深松真司)
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とりあえずツッコミ拠は多々ありますが、慰安婦の強制を云々言ってる人たちが
この証言程度のものを根拠としているのであれば、全く話にならない。
http://www.asahi.com/kansai/kataritsugu/OSK200603020051.html
韓国 元慰安婦たち、静かに寄り添って
ソウルからバスで1時間の広州(カンジュ)。小雪が舞う町はずれの山あいに「ナヌムの家」はあった。ナヌムとは「分かち合い」。日本軍に性暴力を受けた元慰安婦9人が助け合い、静かに暮らしていた。
◇
「やっと平穏な生活を手に入れることができた」。李玉善(イ・オクソン)さん(78)はオンドルのついた8畳ほどの個室で編み物をしていた。「家」に来たのは6年前。戦後55年間、連行先の中国で暮らしていたという。
「無理やり連れて行ったうえ、戦争が終わっても、ほったらかし」。編み物をやめ、語気を強めた。
韓国南東部の蔚山(ウルサン)で、住み込みのお手伝いとして働いていた42年、大通りを歩いていると、背の高い男2人に突然、両脇をつかまれた。トラックに放り込まれて両手両足を縛られ、口をふさがれた。連れて行かれたのは中国東北部の延吉。電気の流れる鉄条網に囲まれた飛行場で草刈りや滑走路の掃除をさせられ、食べ物は小さなパンだけだった。
「こんな所では働けない」。抗議すると、3畳ほどの部屋が並ぶ土やれんがの建物へ。風呂に入れられ、着物や足袋、げた、布団を渡された。「これはお前らの借金。稼いで返せ」。その日から「トミコ」と呼ばれ、兵士らの相手を強いられた。
多い日は40〜50人が列を作った。ある時、階級の高い兵が入ってきた。避妊具を使おうとしないので拒むと、殴られて短刀で腕を刺された。
戦争がいつ終わったのかは知らないという。ある日、日本兵が「ここは危ない。一緒に逃げよう」と山に連れ出した。だが、女性たちを山に残したまま去った。山を下り、知り合った北朝鮮出身の男性の後妻になった。子どもはできなかった。
「もう一度、家族に会いたい」。夫が亡くなり00年、韓国に戻った。両親はすでに亡くなり、自分の死亡届も出されていた。生きていると認めてもらうのに2年近くかかった。
「慰安婦を認めようとしない日本人は、私たちが死ぬのを待っているんじゃないか」。李さんの言葉は、取材する私の胸に突き刺さった。
◇
李さんの隣の部屋で暮らす金君子(キム・グンジャ)さん(79)。「私は天涯孤独。この世に生きて、何も残すものがない」と、硬い表情で天井を見つめた。
幼い時に両親が死んで養女に。17歳の時、家に朝鮮人2人が来た。「工場で働かせてあげる」。列車で連行されたのが旧ソ連国境近くの中国・琿春。慰安所だった。
「ジュンコ」と呼ばれ、日本兵の相手をする毎日。「死にたい」。首をつったが、ひもがちぎれて未遂に終わった。そのアザを見つけた日本兵が殴りかかってきた。日本語で返事できないと短刀で足を刺された。
ある日、銃声がやみ、飛行機の音も聞こえなくなった。日本兵が「お前ら好きにしろ」と言う。慰安婦たち7人で40日ほど、祖国を目指して歩き続けた。畑で大根を盗んで食べた。手をつないで中国国境の豆満江を渡った。一番端の女性の手が離れ、流された。誰も助ける力がなく、じっと見ていた。
故郷に戻ったが養家には帰らず、友人宅に居候した。連行を知っていたはずなのに何もしてくれなかった巡査の養父に、不信感を持っていた。
数日後、昔の恋人が訪ねてきた。すでに結婚していたが、「親のために結婚した。一緒に住まないか」と告げられた。部屋を借りて同居したが、3カ月後、恋人は周りから責められ自殺した。
恋人の子を身ごもっていた。生まれた女の子は5カ月後に死んだ。働いたり寺で修行したりと、各地を転々。ナヌムの家にたどり着いたのは98年のことだという。
「慰安婦を知らない人が増えた。日本だけでなく韓国でも……」。金さんの顔が一層悲しく見えた。
◇
「行きましょ」。取材後、李さんに食事に誘われた。日本語だった。人生を変えた日本。本当は私の顔を見ることも、日本語を聞くことも嫌だろうと思っていただけに、ちょっと救われた気がした。だが、彼女の日本語は植民地支配の証しでもある。過酷な体験と今も続く偏見に、口を閉ざす元慰安婦もいる中、李さんと金さんは服をめくり上げて傷跡を見せてくれた。「歴史の事実を忘れてほしくないから」と語り続ける彼女たちは、今も日本の戦争と闘っている。そう感じた。(深松真司)
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これは メッセージ 1 (dylake2r5j1 さん)への返信です.
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