>タロとジロ生還をリアルで見ていた
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2006/01/25 02:44 投稿番号: [32766 / 43168]
はじめまして。兎亀蝸牛と申します。m(_
_)m
小学校の校区内に晩年のタロがおりました。私の記憶ではいつも寝てましたが(笑)とにかくデカイ犬でありました。
長兄の友人の話では、芝生で昼寝をしてたとき顔をなめられて目を開け「うわっ!熊」と思って固まったとか(同じ敷地に羆はいましたが、もちろん檻の中です。この羆はその後非常に不幸な事故により処分されてしまいました・・涙×沢山)
今思い出してみるとツキノワ熊ぐらいはあったかものかもしれません(太っているときのタロは40kg以上あったとか・・・)
>子供心にあの時の騒ぎは未だに覚えております
こんな記事がありました、帰ってこなかった樺太犬の話です(朝日ですが・・)
↓「タロとジロ」
http://www.asahi.com/nankyoku/whitemail/TKY200408070338.html
___________________________________________
〜略〜
昨年11月初めに稚内を訪れたとき、南極へ「アカ」を送り出した江戸正治さんにお会いしました。「買い物に行くときはそりをひいて、ここらじゃ一番の力持ちだった」と、70歳になられた江戸さんは、昨日のことのように思い出していました。
あるとき役場の職員がやってきて、アカをほしいと父親に頼んだそうです。「寒い南極なんかに連れて行くのはかわいそうだ」と断ったのですが、拝み倒されました。「親父は差し出された金を受け取らなかった。『息子を戦地へ送り出すのと同じだ。帰れなくても名誉の死だと思おう』と言ってた」
稚内公園での訓練中、里心がついてはいけないと、犬に会わせてもらえませんでした。それでもこっそりのぞきに行ったそうです。「アカと呼んだら、尻尾を降ってこっちをむいた。そばに行って頭をなでてやりたかった」
私は稚内から札幌へ飛んで、「ジャック」の飼い主だった渡辺晃吉さん(76歳)にもお会いしました。
昔、利尻島に住んでいた渡辺さんは、「うちではクロと呼んでいた。私の冬の交通機関。どんなにふぶいても、すごい速さでそりをひいて、島を回った。一日で70キロ走ることもあった。マイナス20度でも平気だった」と話していました。
体重35キロの大きな体で、「父の肩に両足をあげて、はげ頭をペロペロなめていたよ」と、写真を見ながら目を細めていました。
1955年夏、樺太犬を探し集めていた北海道大の犬飼哲夫さんらが何度も通って来て、頼むので、「国のためなら仕方ない」と無償で譲ったそうです。
「夕飯に立派な魚を出してやったら口をつけなかった。翌朝、抵抗するクロを大人が何人もかかって、おりに入れたら、『泣いてる』と周りの人が言うんだ。本当に目から涙が筋になって流れ落ちていて、びっくりした。別れがわかっていたんだな」
故郷を離れ、訓練を終えた樺太犬22頭は、観測船「宗谷」に乗って南極へ渡り、19頭が越冬しました。第2次越冬隊が到着したとき、天候の悪化で「宗谷」は氷海に閉じこめられる危険にさらされました。越冬を断念して、15頭を昭和基地に残したまま、南極を離れることになってしまったのです。
「宗谷」の乗組員だった三田安則さん(第1〜5次)と高尾一三さん(第1〜3次)とは、東京でお会いして、当時の話をうかがいました。
「迎えに飛んだ航空機は非常用の燃料や食料の一部もおろして、子犬ら数匹を連れ帰った。氷海を抜け出してからもう一度、飛ぼうとしたが、しけて、どうしようもならなかった」と三田さんは、今も残念がっていました。
帰国後、隊員や乗組員らを待ち受けていたのは、「なぜ犬を見捨てた」という抗議の電話や手紙でした。「自宅に火をつける」などと脅迫までされたそうです。〜略〜
初期の観測隊を支えた樺太犬の子孫はもういません。稚内市立図書館の大橋幸男さんによると、エキノコックスが伝染し、野犬狩りも公認されたことなどで、絶えてしまったそうです。〜後略
__________________________________
「南極物語」、タロ(ジロも)が本物と全然似てないのがいまだにひっかかってます。
(まあ、映画的にはハスキー犬のほうが見栄えがしたのでしょうけれど・・ブツクサ)
小学校の校区内に晩年のタロがおりました。私の記憶ではいつも寝てましたが(笑)とにかくデカイ犬でありました。
長兄の友人の話では、芝生で昼寝をしてたとき顔をなめられて目を開け「うわっ!熊」と思って固まったとか(同じ敷地に羆はいましたが、もちろん檻の中です。この羆はその後非常に不幸な事故により処分されてしまいました・・涙×沢山)
今思い出してみるとツキノワ熊ぐらいはあったかものかもしれません(太っているときのタロは40kg以上あったとか・・・)
>子供心にあの時の騒ぎは未だに覚えております
こんな記事がありました、帰ってこなかった樺太犬の話です(朝日ですが・・)
↓「タロとジロ」
http://www.asahi.com/nankyoku/whitemail/TKY200408070338.html
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〜略〜
昨年11月初めに稚内を訪れたとき、南極へ「アカ」を送り出した江戸正治さんにお会いしました。「買い物に行くときはそりをひいて、ここらじゃ一番の力持ちだった」と、70歳になられた江戸さんは、昨日のことのように思い出していました。
あるとき役場の職員がやってきて、アカをほしいと父親に頼んだそうです。「寒い南極なんかに連れて行くのはかわいそうだ」と断ったのですが、拝み倒されました。「親父は差し出された金を受け取らなかった。『息子を戦地へ送り出すのと同じだ。帰れなくても名誉の死だと思おう』と言ってた」
稚内公園での訓練中、里心がついてはいけないと、犬に会わせてもらえませんでした。それでもこっそりのぞきに行ったそうです。「アカと呼んだら、尻尾を降ってこっちをむいた。そばに行って頭をなでてやりたかった」
私は稚内から札幌へ飛んで、「ジャック」の飼い主だった渡辺晃吉さん(76歳)にもお会いしました。
昔、利尻島に住んでいた渡辺さんは、「うちではクロと呼んでいた。私の冬の交通機関。どんなにふぶいても、すごい速さでそりをひいて、島を回った。一日で70キロ走ることもあった。マイナス20度でも平気だった」と話していました。
体重35キロの大きな体で、「父の肩に両足をあげて、はげ頭をペロペロなめていたよ」と、写真を見ながら目を細めていました。
1955年夏、樺太犬を探し集めていた北海道大の犬飼哲夫さんらが何度も通って来て、頼むので、「国のためなら仕方ない」と無償で譲ったそうです。
「夕飯に立派な魚を出してやったら口をつけなかった。翌朝、抵抗するクロを大人が何人もかかって、おりに入れたら、『泣いてる』と周りの人が言うんだ。本当に目から涙が筋になって流れ落ちていて、びっくりした。別れがわかっていたんだな」
故郷を離れ、訓練を終えた樺太犬22頭は、観測船「宗谷」に乗って南極へ渡り、19頭が越冬しました。第2次越冬隊が到着したとき、天候の悪化で「宗谷」は氷海に閉じこめられる危険にさらされました。越冬を断念して、15頭を昭和基地に残したまま、南極を離れることになってしまったのです。
「宗谷」の乗組員だった三田安則さん(第1〜5次)と高尾一三さん(第1〜3次)とは、東京でお会いして、当時の話をうかがいました。
「迎えに飛んだ航空機は非常用の燃料や食料の一部もおろして、子犬ら数匹を連れ帰った。氷海を抜け出してからもう一度、飛ぼうとしたが、しけて、どうしようもならなかった」と三田さんは、今も残念がっていました。
帰国後、隊員や乗組員らを待ち受けていたのは、「なぜ犬を見捨てた」という抗議の電話や手紙でした。「自宅に火をつける」などと脅迫までされたそうです。〜略〜
初期の観測隊を支えた樺太犬の子孫はもういません。稚内市立図書館の大橋幸男さんによると、エキノコックスが伝染し、野犬狩りも公認されたことなどで、絶えてしまったそうです。〜後略
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「南極物語」、タロ(ジロも)が本物と全然似てないのがいまだにひっかかってます。
(まあ、映画的にはハスキー犬のほうが見栄えがしたのでしょうけれど・・ブツクサ)
これは メッセージ 32758 (mamakaede さん)への返信です.
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