横>李舜臣将軍<<ぷっ
投稿者: samurai_03_japan 投稿日時: 2005/01/13 15:34 投稿番号: [16364 / 43168]
李舜臣提督に関しては。
敵の最も弱き所で最も重要な所(補給船団。兵站補給の源)を全力で確実に叩きつづける、という戦争・戦略の基本を貫いた所は評価しています。
これは奇麗事では無い、戦争・戦略指揮の王道ですから。
「制海権」。必要な時に、必要な場所に、必要な船舶を送り込む。
これを日本軍にさせなかったことが、日本側苦戦の原因ですから。
古くは十字軍とイスラムの「レパント海戦」
イングランドとスペインの「トラファルガー海戦」
近代に入って日本とロシアの「日本海海戦」
これらはその戦術的勝利もそうですが、もっと大きな意味で、「制海権」を手中にした、或いは相手に「制海権」を握らせなかった。
この事がもっと大きな意味を持つ。
WW2で日本が1943年以降、なし崩しに米軍に押されまくったのも、通商破壊戦で兵站補給を寸断された為=制海権を握ることができなかった為。
WW1、WW2で英国が、アメリカ参戦までの間ドイツによって戦争継続不可能寸前まで追い詰められたのも、ドイツ・U-ボート部隊によるもの=制海権を確実にできなかった為。
だから最後の「露梁津海戦」はミソをつけた、と思いますな。
休戦協定を結んだ相手を、周囲が制止するのを振り切り攻撃し、あまつさえ後背から逆襲を受け、戦死した。
であればその「戦略目標」は何だったのか?
「戦術目標」は退却する日本軍の「殲滅」でしょうが、既に日本側は撤退することを決定していた。
明・朝鮮側が日本への逆侵攻を仕掛けることが無い限り、この「戦術目標」には「戦略目標」が無い。
それ以前と違って。
更に言えば「休戦協定破り」
李舜臣が韓国国内ほどに海外で評価されていないのは、最後の「露梁海戦」の戦略目標無き戦術的失敗と、上記「休戦協定破り」が要因しているのではないか。
残念なことだが。
それと
>押し寄せ侵略する数多い倭軍を全滅させて
全滅した部隊は残念ながら存在しない。
李舜臣と交戦したのは主に水軍だが。
李舜臣と交戦した日本側水軍・陸上軍:小西、島津、来島、九鬼、加藤、立花の各家で大将級が討ち死にしたのは来島通総(因島・大島三万石だったか?)のみ。
来島水軍衆はのちに他家の指揮下に入っている。
小西家は関が原(1600年)で西軍に組して取り潰し。
島津も関が原で西軍に組したが、本領安堵。
九鬼は父・嘉隆が西軍に組し後、自害。息子・守隆は東軍に組して三万石加増の五万三千石で明治まで続く。
加藤・立花両家も関が原で東軍に組し、所領加増。
加藤家は大阪冬・夏の陣にも出陣。のち会津で四十万石の大大名(大諸侯)となる。
(2代目の時にお家騒動を起こし、二万石に削減・国替え)
来島家も確かその後江戸時代を小大名家として続いた。
「全滅」させられていたら、これらの諸家は存在しない。
少なくとも2年後の関が原に軍勢を送り込めるほど、人的・物的損失からは回復できない。
敵の最も弱き所で最も重要な所(補給船団。兵站補給の源)を全力で確実に叩きつづける、という戦争・戦略の基本を貫いた所は評価しています。
これは奇麗事では無い、戦争・戦略指揮の王道ですから。
「制海権」。必要な時に、必要な場所に、必要な船舶を送り込む。
これを日本軍にさせなかったことが、日本側苦戦の原因ですから。
古くは十字軍とイスラムの「レパント海戦」
イングランドとスペインの「トラファルガー海戦」
近代に入って日本とロシアの「日本海海戦」
これらはその戦術的勝利もそうですが、もっと大きな意味で、「制海権」を手中にした、或いは相手に「制海権」を握らせなかった。
この事がもっと大きな意味を持つ。
WW2で日本が1943年以降、なし崩しに米軍に押されまくったのも、通商破壊戦で兵站補給を寸断された為=制海権を握ることができなかった為。
WW1、WW2で英国が、アメリカ参戦までの間ドイツによって戦争継続不可能寸前まで追い詰められたのも、ドイツ・U-ボート部隊によるもの=制海権を確実にできなかった為。
だから最後の「露梁津海戦」はミソをつけた、と思いますな。
休戦協定を結んだ相手を、周囲が制止するのを振り切り攻撃し、あまつさえ後背から逆襲を受け、戦死した。
であればその「戦略目標」は何だったのか?
「戦術目標」は退却する日本軍の「殲滅」でしょうが、既に日本側は撤退することを決定していた。
明・朝鮮側が日本への逆侵攻を仕掛けることが無い限り、この「戦術目標」には「戦略目標」が無い。
それ以前と違って。
更に言えば「休戦協定破り」
李舜臣が韓国国内ほどに海外で評価されていないのは、最後の「露梁海戦」の戦略目標無き戦術的失敗と、上記「休戦協定破り」が要因しているのではないか。
残念なことだが。
それと
>押し寄せ侵略する数多い倭軍を全滅させて
全滅した部隊は残念ながら存在しない。
李舜臣と交戦したのは主に水軍だが。
李舜臣と交戦した日本側水軍・陸上軍:小西、島津、来島、九鬼、加藤、立花の各家で大将級が討ち死にしたのは来島通総(因島・大島三万石だったか?)のみ。
来島水軍衆はのちに他家の指揮下に入っている。
小西家は関が原(1600年)で西軍に組して取り潰し。
島津も関が原で西軍に組したが、本領安堵。
九鬼は父・嘉隆が西軍に組し後、自害。息子・守隆は東軍に組して三万石加増の五万三千石で明治まで続く。
加藤・立花両家も関が原で東軍に組し、所領加増。
加藤家は大阪冬・夏の陣にも出陣。のち会津で四十万石の大大名(大諸侯)となる。
(2代目の時にお家騒動を起こし、二万石に削減・国替え)
来島家も確かその後江戸時代を小大名家として続いた。
「全滅」させられていたら、これらの諸家は存在しない。
少なくとも2年後の関が原に軍勢を送り込めるほど、人的・物的損失からは回復できない。
これは メッセージ 16332 (i_sun_sin_janggun さん)への返信です.
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