やっぱり桜はウリナラ起源ニダ!
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2009/04/20 12:46 投稿番号: [1091 / 3880]
>モダンボーイ、モダンガールらは桜の木の下で密語を交わした。
>電車に乗って鍾路(チョンロ)で降り、和信(ファシン)百貨店に立ち寄った後、昌慶苑へ向かうのが最高のデートコースだった。
ははあ、さてはニテーイが、デートなんてふしだらな風習を儒教だったウリナラに持ち込んだんですね?(笑)
モガ、モボなんていう堕落したファッションまで持ち込むなんて!(笑)
地面に五寸釘を打ち込めば生気を失ってヘナヘナになってしまうらしい、か弱いウリミンジョクに対し、そんな仕打ちまでしたんですね!(笑)
ニテーイがここまで残虐だったかと思うと、本当に日本人として申し訳ない気持ちでいっぱいになります。(爆)
> 桜の木が日本産ではなく韓国産ということが伝えられた後、桜の花見は全国民の祭りとなった。
ま、こういうヨタをこく事で、ニテーイ残滓の花見という行為も合理化されるわけですね。この記事を読み始めた時から結論は想像はついていました。(笑)
短歌をやる朝鮮歌人が、ウリナラの新聞に「イルボンの短歌は新羅起源だから」と苦し紛れの言い訳をして逃れるのと一緒ですね。
ベトナム人が、ベトナムで一般化しているフランス起源のカフェオレやクロワッサン、バケットを、「これはベトナム起源だ」とヨタをこくのと一緒です。ま、しかしベトナム人はそんなバカな事はしません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
没落王朝の宮廷には桜…解放後、花見は残る
日本では桜の「開花予想」を間違えたとして、気象庁が謝罪をする。天気予報を間違えるのは許されても、これを見違えるのは許されない。夜桜の名所、東京・上野公園は4月になると、花見を楽しもうとする人々が早朝から公園を訪れ、木の下にシートを広げる。
朝鮮(チョソン、1392−1910)を併合した日本人は、ソウル中心部の昌慶宮(チャンギョングン)を上野公園のように作りたかったとみられる。1907年に純宗(朝鮮第27代王)がここに居所を移すと、日本は「慰労」という名分から殿閣およそ60軒を壊し、植物園と動物園、そして博物館を建てた。4年後には宮殿に数千株の桜の木を植えた。同年4月11日、昌慶宮は昌慶苑に改称される。意外にも改名を進めた人は純宗だったという。
「宮」といえば出入りする民らが負担を感じることから、「苑」にし、気楽に利用できるようにするという配慮であった。木が茂ってきたころの24年の春、夜間の開場を始めた。100ワットの電灯が設けられ、夜も真昼のように明るかった。白い道袍(両班が通常着用した外出用の礼服)に笠をかぶった、田舎から上京した人も多かった。モダンボーイ、モダンガールらは桜の木の下で密語を交わした。
電車に乗って鍾路(チョンロ)で降り、和信(ファシン)百貨店に立ち寄った後、昌慶苑へ向かうのが最高のデートコースだった。22年4月26日、人質として日本に滞在中だった悲運の皇太子・英親王が前年に産んだ長男(晋)を純宗に見せるため一時帰国し、桜の花が飛び散る昌慶苑を訪れた(写真・中央の制服姿)。晋は日本に戻る直前の5月7日に亡くなった。それ以降、日本の帝国主義による植民支配時代は終わったが、桜の花見は残った。
大観覧車などの乗り物も入ってきた。60年代と70年代の4月、魔法瓶にのり巻きを準備し押し寄せた市民らは、蔵書閣へ向かうところからシートを敷く場所を取るのに忙しかった。綿菓子とポンデギ(さなぎの煮物)を手にした子ども、色とりどりの風船を手にした少女、日傘を持っている女性、客を集める写真師らなどでにぎわった。
80年代初め、大学生の間ではいわゆる昌慶苑「ナ・チェ・ティング」が流行った。「ナ・チェ・ティング」とは「ナイト・チェリーブロッサム・ミーティング(夜の花見を兼ねた合コン)」の略語だ。1日2万人が殺到する時代だった。83年12月31日、昌慶苑は閉業し、3年にわたる工事の後、昌慶宮に生まれ変わる。およそ50年にわたって春の夜を明かした桜の木は汝矣島輪中路(ヨウィド・ユンジュンロ)に引っ越した。
桜の木が日本産ではなく韓国産ということが伝えられた後、桜の花見は全国民の祭りとなった。最近、漢江(ハンガン)沿い、蟾津江(ソムジンガン)沿い、慶州(キョンジュ)と鎮海(チンヘ)など、全国の花見を楽しめる所は半分は人、半分は桜で埋め尽くされている。
中央日報 Joins.com
2009.04.20 10:50:24
>電車に乗って鍾路(チョンロ)で降り、和信(ファシン)百貨店に立ち寄った後、昌慶苑へ向かうのが最高のデートコースだった。
ははあ、さてはニテーイが、デートなんてふしだらな風習を儒教だったウリナラに持ち込んだんですね?(笑)
モガ、モボなんていう堕落したファッションまで持ち込むなんて!(笑)
地面に五寸釘を打ち込めば生気を失ってヘナヘナになってしまうらしい、か弱いウリミンジョクに対し、そんな仕打ちまでしたんですね!(笑)
ニテーイがここまで残虐だったかと思うと、本当に日本人として申し訳ない気持ちでいっぱいになります。(爆)
> 桜の木が日本産ではなく韓国産ということが伝えられた後、桜の花見は全国民の祭りとなった。
ま、こういうヨタをこく事で、ニテーイ残滓の花見という行為も合理化されるわけですね。この記事を読み始めた時から結論は想像はついていました。(笑)
短歌をやる朝鮮歌人が、ウリナラの新聞に「イルボンの短歌は新羅起源だから」と苦し紛れの言い訳をして逃れるのと一緒ですね。
ベトナム人が、ベトナムで一般化しているフランス起源のカフェオレやクロワッサン、バケットを、「これはベトナム起源だ」とヨタをこくのと一緒です。ま、しかしベトナム人はそんなバカな事はしません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
没落王朝の宮廷には桜…解放後、花見は残る
日本では桜の「開花予想」を間違えたとして、気象庁が謝罪をする。天気予報を間違えるのは許されても、これを見違えるのは許されない。夜桜の名所、東京・上野公園は4月になると、花見を楽しもうとする人々が早朝から公園を訪れ、木の下にシートを広げる。
朝鮮(チョソン、1392−1910)を併合した日本人は、ソウル中心部の昌慶宮(チャンギョングン)を上野公園のように作りたかったとみられる。1907年に純宗(朝鮮第27代王)がここに居所を移すと、日本は「慰労」という名分から殿閣およそ60軒を壊し、植物園と動物園、そして博物館を建てた。4年後には宮殿に数千株の桜の木を植えた。同年4月11日、昌慶宮は昌慶苑に改称される。意外にも改名を進めた人は純宗だったという。
「宮」といえば出入りする民らが負担を感じることから、「苑」にし、気楽に利用できるようにするという配慮であった。木が茂ってきたころの24年の春、夜間の開場を始めた。100ワットの電灯が設けられ、夜も真昼のように明るかった。白い道袍(両班が通常着用した外出用の礼服)に笠をかぶった、田舎から上京した人も多かった。モダンボーイ、モダンガールらは桜の木の下で密語を交わした。
電車に乗って鍾路(チョンロ)で降り、和信(ファシン)百貨店に立ち寄った後、昌慶苑へ向かうのが最高のデートコースだった。22年4月26日、人質として日本に滞在中だった悲運の皇太子・英親王が前年に産んだ長男(晋)を純宗に見せるため一時帰国し、桜の花が飛び散る昌慶苑を訪れた(写真・中央の制服姿)。晋は日本に戻る直前の5月7日に亡くなった。それ以降、日本の帝国主義による植民支配時代は終わったが、桜の花見は残った。
大観覧車などの乗り物も入ってきた。60年代と70年代の4月、魔法瓶にのり巻きを準備し押し寄せた市民らは、蔵書閣へ向かうところからシートを敷く場所を取るのに忙しかった。綿菓子とポンデギ(さなぎの煮物)を手にした子ども、色とりどりの風船を手にした少女、日傘を持っている女性、客を集める写真師らなどでにぎわった。
80年代初め、大学生の間ではいわゆる昌慶苑「ナ・チェ・ティング」が流行った。「ナ・チェ・ティング」とは「ナイト・チェリーブロッサム・ミーティング(夜の花見を兼ねた合コン)」の略語だ。1日2万人が殺到する時代だった。83年12月31日、昌慶苑は閉業し、3年にわたる工事の後、昌慶宮に生まれ変わる。およそ50年にわたって春の夜を明かした桜の木は汝矣島輪中路(ヨウィド・ユンジュンロ)に引っ越した。
桜の木が日本産ではなく韓国産ということが伝えられた後、桜の花見は全国民の祭りとなった。最近、漢江(ハンガン)沿い、蟾津江(ソムジンガン)沿い、慶州(キョンジュ)と鎮海(チンヘ)など、全国の花見を楽しめる所は半分は人、半分は桜で埋め尽くされている。
中央日報 Joins.com
2009.04.20 10:50:24