またまた自爆
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2011/10/27 07:16 投稿番号: [794 / 1105]
記事入力 : 2011/10/26 13:11
「文字普及運動で学んだのはハングルだけではない」
文化財指定『朝鮮日報文字普及本』で学んだ金雲漢准将の回顧
「そうそう。まさにこの教材で私はハングルを学んだ」。本紙のハングル教材のコピーを手にし、80年ほど前の記憶を回顧する金雲漢・予備役陸軍准将。/写真=全基炳(チョン・ギピョン)記者
「朝、新聞を見て涙が出た。私が8歳のとき、村の公会堂で“カ、キャ、コ、キョ”と(ハングルを)学んだときに使った教材を、82年ぶりに目にし、感慨無量だ」
日本による植民地時代に使用された本紙のハングル教材が、文化財に指定されるというニュースが報じられた25日朝。高齢の読者から電話がかかってきた。その読者は「金雲漢(キム・ウンハン)予備役陸軍准将」と名乗った。本紙が文字普及運動を開始した1929年7月、慶尚北道栄州郡平恩面水島里の公会堂で開かれたハングル教室に参加した金准将は、今年で90歳になる。
「そうそう。公会堂で教室の壁の両側に張ってあったハングル教材だ」
金准将と会い、本紙が発行した『ハングル原本』のコピーを見せると、金准将はしばらくそれに見入っていた。「当時はまだ子どもだったので、ハングルの先生が朝鮮日報の文字普及団員だったかはよく分からない。私が学んだ年が、朝鮮日報が文字普及運動を始めた初年に当たるのなら、文字普及団のメンバーだったのだろう。教材も、まさにこれだった」。金さんの顔には深いしわが目立っていたが、声は朗々として、目もきらきら輝いていた。
「大きなむしろを4枚敷いたハングル教室には、30‐40人程度入ることができた」。金准将の記憶は歳月を飛び越え、つい先日のことのように鮮明だった。国を失った子どもたちは、数時間床に座って「カ、キャ、コ、キョ」とハングルの発音を合唱した。国民学校(今の小学校)にも通っていない小さな子どもから、二十歳くらいの独身男性までいたという。
「小さな筆に墨をつけて、宮書体でハングルの書き方を学んだ。練習用の紙は全て新聞紙だった。ざら紙1枚でも貴重だった時代なので、余白が少しでもあれば、小さな字を書いて使い回した。紙全体が真っ黒になるまで練習した」
金准将はわずか2カ月でハングルを覚え、それ以来、多くのことが変わったという。手紙をやり取りするようになったほか、家に配達される新聞を読めることが一番うれしかった。金准将は「8歳のときから90歳の今まで新聞を読んでいるので、私は82年間、朝鮮日報の読者」と言い、声を上げて笑った。
金准将は、ハングル教室の重要な記憶の一つを思い出した。「ソウルからやって来た先生方は、“カ、キャ、コ、キョ”だけを教えた訳ではない。しばしば朝鮮の情勢に関する話もしていた。よく理解できなかったが、“日本のやつらは殺すべき”と言っていたのを覚えている。最初は何も考えずに聞いていたが、先生方が何度も繰り返すので、子どもの私も“悪い日本のやつら”と思うようになった」
金准将がハングルを学んだ村の公会堂は、抗日青年たちのアジトのような場所だった。「亜島書塾」という教育機関がここに拠点を構え、1928年には新幹会と青年同盟の平恩面支会が結成された。32年と33年の2度にわたり日本の警察が押し掛けてきて、青年たちを大勢捕まえていったときの記憶を、金准将は忘れられないという。「ハングルを教えてくれた先生方の中にも、監獄行きになった方が多い」と金准将は語った。
金准将は、植民地時代末期に満州へ渡り、独立運動に力を注いだ。光復(日本の植民地支配からの解放)後は、陸軍士官学校第8期出身の砲兵将校として6・25戦争(朝鮮戦争)の前線で戦った。開戦から3日間、敵の南下を極力阻止し続けた春川地区での戦闘を皮切りに、前線を渡り歩き、敵と対決した。78年に軍服を脱ぎ、職業訓練院の院長を務めた後、引退した。
かつてハングルを学んだ慶尚北道栄州郡の故郷の村の公会堂はすでに取り壊され、現在は存在しない。その跡地に、当時の建物をそのまま再現した学び舎を復元し、記念館を建てるのが老兵の夢だ。
「くだらない石碑や記念牌のたぐいは、建ててほしくない。そうではなく、80年前に村の友人たちと目にした朝鮮日報の文字普及教材やその運動に関する記事を、記念館の壁いっぱいに展示したい」
金明煥(キム・ミョンファン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
何で植民地で堂々とハングルの新聞とか教育ができるんだ?
優遇されてたんだろ?
「文字普及運動で学んだのはハングルだけではない」
文化財指定『朝鮮日報文字普及本』で学んだ金雲漢准将の回顧
「そうそう。まさにこの教材で私はハングルを学んだ」。本紙のハングル教材のコピーを手にし、80年ほど前の記憶を回顧する金雲漢・予備役陸軍准将。/写真=全基炳(チョン・ギピョン)記者
「朝、新聞を見て涙が出た。私が8歳のとき、村の公会堂で“カ、キャ、コ、キョ”と(ハングルを)学んだときに使った教材を、82年ぶりに目にし、感慨無量だ」
日本による植民地時代に使用された本紙のハングル教材が、文化財に指定されるというニュースが報じられた25日朝。高齢の読者から電話がかかってきた。その読者は「金雲漢(キム・ウンハン)予備役陸軍准将」と名乗った。本紙が文字普及運動を開始した1929年7月、慶尚北道栄州郡平恩面水島里の公会堂で開かれたハングル教室に参加した金准将は、今年で90歳になる。
「そうそう。公会堂で教室の壁の両側に張ってあったハングル教材だ」
金准将と会い、本紙が発行した『ハングル原本』のコピーを見せると、金准将はしばらくそれに見入っていた。「当時はまだ子どもだったので、ハングルの先生が朝鮮日報の文字普及団員だったかはよく分からない。私が学んだ年が、朝鮮日報が文字普及運動を始めた初年に当たるのなら、文字普及団のメンバーだったのだろう。教材も、まさにこれだった」。金さんの顔には深いしわが目立っていたが、声は朗々として、目もきらきら輝いていた。
「大きなむしろを4枚敷いたハングル教室には、30‐40人程度入ることができた」。金准将の記憶は歳月を飛び越え、つい先日のことのように鮮明だった。国を失った子どもたちは、数時間床に座って「カ、キャ、コ、キョ」とハングルの発音を合唱した。国民学校(今の小学校)にも通っていない小さな子どもから、二十歳くらいの独身男性までいたという。
「小さな筆に墨をつけて、宮書体でハングルの書き方を学んだ。練習用の紙は全て新聞紙だった。ざら紙1枚でも貴重だった時代なので、余白が少しでもあれば、小さな字を書いて使い回した。紙全体が真っ黒になるまで練習した」
金准将はわずか2カ月でハングルを覚え、それ以来、多くのことが変わったという。手紙をやり取りするようになったほか、家に配達される新聞を読めることが一番うれしかった。金准将は「8歳のときから90歳の今まで新聞を読んでいるので、私は82年間、朝鮮日報の読者」と言い、声を上げて笑った。
金准将は、ハングル教室の重要な記憶の一つを思い出した。「ソウルからやって来た先生方は、“カ、キャ、コ、キョ”だけを教えた訳ではない。しばしば朝鮮の情勢に関する話もしていた。よく理解できなかったが、“日本のやつらは殺すべき”と言っていたのを覚えている。最初は何も考えずに聞いていたが、先生方が何度も繰り返すので、子どもの私も“悪い日本のやつら”と思うようになった」
金准将がハングルを学んだ村の公会堂は、抗日青年たちのアジトのような場所だった。「亜島書塾」という教育機関がここに拠点を構え、1928年には新幹会と青年同盟の平恩面支会が結成された。32年と33年の2度にわたり日本の警察が押し掛けてきて、青年たちを大勢捕まえていったときの記憶を、金准将は忘れられないという。「ハングルを教えてくれた先生方の中にも、監獄行きになった方が多い」と金准将は語った。
金准将は、植民地時代末期に満州へ渡り、独立運動に力を注いだ。光復(日本の植民地支配からの解放)後は、陸軍士官学校第8期出身の砲兵将校として6・25戦争(朝鮮戦争)の前線で戦った。開戦から3日間、敵の南下を極力阻止し続けた春川地区での戦闘を皮切りに、前線を渡り歩き、敵と対決した。78年に軍服を脱ぎ、職業訓練院の院長を務めた後、引退した。
かつてハングルを学んだ慶尚北道栄州郡の故郷の村の公会堂はすでに取り壊され、現在は存在しない。その跡地に、当時の建物をそのまま再現した学び舎を復元し、記念館を建てるのが老兵の夢だ。
「くだらない石碑や記念牌のたぐいは、建ててほしくない。そうではなく、80年前に村の友人たちと目にした朝鮮日報の文字普及教材やその運動に関する記事を、記念館の壁いっぱいに展示したい」
金明煥(キム・ミョンファン)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
何で植民地で堂々とハングルの新聞とか教育ができるんだ?
優遇されてたんだろ?
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