稲作の起源
投稿者: I_LoveBakaChon 投稿日時: 2001/07/16 15:59 投稿番号: [8357 / 35788]
稲の日本への伝播について、今までは、中国の華北から朝鮮半島北部に伝わり、さらに朝鮮半島南部から北九州に伝わったとされてきた。ところが、その後の中国における考古学研究が盛んになるにつれて、華北や朝鮮半島北部のような寒い地域は、日本で栽培されているジャポニカタイプの稲作には適さない地域環境だという事が明らかにされ、従来の説は否定された。
それなのに学校の教科書では、従来通りの「朝鮮半島経由説」をそのまま踏襲している。なんで訂正しないのか非常に不思議だ。
じゃあ、稲はどこから、どういうルートで日本に伝えられたのか。
朝鮮半島経由説を否定した場合、考えられるルートは、二つある。
一つは、中国南部の福建省や広東省、さらにはベトナムの方から、琉球諸島を経て九州南部に上陸し、それが北九州に伝わったとする説だ。
でも、「中国南部・ベトナム説」は、稲作技術が九州南部に上陸したとしているけど、それならば稲作に関する遺跡が、九州南部にもあってもいいはずだ。
しかし、九州南部からは、そういった遺跡は一切発見されていない。だから、この考えには無理がある。
二つ目は、中国の揚子江下流域付近から舟で東シナ海を渡って、直接北九州にもちこまれたとする説だ。
この説は、ある伝説を無視して考える事は出来ない。
徐福伝説
徐福というのは、中国の秦の時代の人で、秦の始皇帝から不老不死の薬を捜すことを命ぜられ、日本に渡ってきたと伝えられている人物だ。
実際、日本各地に徐福を祀る神社や伝説地が数多く存在していて、北は青森県から、南は鹿児島までに広がっている。
徐福が中国から舟で渡ってきたということからだと思うんだけど、各地の分布状況を見ると、海岸部分に圧倒的に多く存在している。
面白いのは、それぞれの伝説地において徐福の祀られ方が異なっている。
例えば、三重県熊野市波田須の徐福神社では、焼き物の技術をもたらした神として祀られているし、山梨県富士吉田市の太神社では、織物をもたらした神って事になっている。
この徐福伝説、そのルーツは司馬遷(しばせん)の著した『史記』の中に見る事が出来る。
『史記』によると、紀元前219年に始皇帝が徐市という男に不老不死の薬を捜すことを命じたことが書かれている。
そして、その時に「童の男女3000人」「五穀の種」「百工」が一緒に舟に乗せられたという。
さて、『史記』に登場する「徐市」だけど、「徐福」と同一人物を指しているのはほぼ間違いない。
「徐市」は中国語で「じょふつ」と発音するので、「じょふつ」が「じょふく」と伝承されたのではないかと思う。
徐福は「童の男女3000人」を引き連れ不老不死の薬を捜す旅に出たわけだけど、『史記』には徐福が日本に上陸したなんて記述は一切書かれていない。
でも、徐福を祀る神社や伝説地が日本中に存在しているのは事実なのだから、徐福が日本に上陸したのは間違いないと考えられている。
徐福の祀られ方が各地で異なっているという点は、「百工」によるものだと考えることが出来る。
「百工」というのは、たぶん「百種類の技術」という意味だろう。
実際に百種類あったのかは別として、焼き物技術や織物技術さらには捕鯨術など、様々な技術を要していたのだろう。
「五穀の種」は文字通り、「五種類の穀物」を意味していたのは間違いない。
そして、この中に「稲」が含まれていた可能性は非常に高い。
「東シナ海渡来説」の検証
中国の江蘇省に徐阜(じょふ)村という名前の村があるが、実は清朝以前は徐福村という名前だった。
この徐福村が徐福の出身地なのではないかと考えられている。
位置的には山東半島の付け根に近い部分なので、揚子江下流域ではないけど、徐福村から舟で東に進めば、ちょうど北九州あたりに到達する。
もう一つ注目したいのは、人口が急激に増えているという事だ。
縄文中期の日本の人口は約26万人と推定されていて、その内訳は東日本25万人、西日本1万人といわれている。
つまり、縄文時代までの日本は東日本中心に動いていたという事だ。
ところが弥生時代になると、九州を中心として急激に人口が増加する。
その後の歴史を見てもらえばわかるが、鎌倉幕府を例外とすれば、徳川家康が江戸に幕府を開くまでの間、ずっと西日本中心に動くようになる。
何故、弥生時代以降、西日本中心になっていったのか。
徐福と共に「童の男女3000人」が北九州に上陸し、稲を代表とする「五種類の穀物」と「百工」の様々な技術を日本人に伝え、まず九州地方の生活が向上し、結果的には、それが西日本全体に広がったからだと思う。
それなのに学校の教科書では、従来通りの「朝鮮半島経由説」をそのまま踏襲している。なんで訂正しないのか非常に不思議だ。
じゃあ、稲はどこから、どういうルートで日本に伝えられたのか。
朝鮮半島経由説を否定した場合、考えられるルートは、二つある。
一つは、中国南部の福建省や広東省、さらにはベトナムの方から、琉球諸島を経て九州南部に上陸し、それが北九州に伝わったとする説だ。
でも、「中国南部・ベトナム説」は、稲作技術が九州南部に上陸したとしているけど、それならば稲作に関する遺跡が、九州南部にもあってもいいはずだ。
しかし、九州南部からは、そういった遺跡は一切発見されていない。だから、この考えには無理がある。
二つ目は、中国の揚子江下流域付近から舟で東シナ海を渡って、直接北九州にもちこまれたとする説だ。
この説は、ある伝説を無視して考える事は出来ない。
徐福伝説
徐福というのは、中国の秦の時代の人で、秦の始皇帝から不老不死の薬を捜すことを命ぜられ、日本に渡ってきたと伝えられている人物だ。
実際、日本各地に徐福を祀る神社や伝説地が数多く存在していて、北は青森県から、南は鹿児島までに広がっている。
徐福が中国から舟で渡ってきたということからだと思うんだけど、各地の分布状況を見ると、海岸部分に圧倒的に多く存在している。
面白いのは、それぞれの伝説地において徐福の祀られ方が異なっている。
例えば、三重県熊野市波田須の徐福神社では、焼き物の技術をもたらした神として祀られているし、山梨県富士吉田市の太神社では、織物をもたらした神って事になっている。
この徐福伝説、そのルーツは司馬遷(しばせん)の著した『史記』の中に見る事が出来る。
『史記』によると、紀元前219年に始皇帝が徐市という男に不老不死の薬を捜すことを命じたことが書かれている。
そして、その時に「童の男女3000人」「五穀の種」「百工」が一緒に舟に乗せられたという。
さて、『史記』に登場する「徐市」だけど、「徐福」と同一人物を指しているのはほぼ間違いない。
「徐市」は中国語で「じょふつ」と発音するので、「じょふつ」が「じょふく」と伝承されたのではないかと思う。
徐福は「童の男女3000人」を引き連れ不老不死の薬を捜す旅に出たわけだけど、『史記』には徐福が日本に上陸したなんて記述は一切書かれていない。
でも、徐福を祀る神社や伝説地が日本中に存在しているのは事実なのだから、徐福が日本に上陸したのは間違いないと考えられている。
徐福の祀られ方が各地で異なっているという点は、「百工」によるものだと考えることが出来る。
「百工」というのは、たぶん「百種類の技術」という意味だろう。
実際に百種類あったのかは別として、焼き物技術や織物技術さらには捕鯨術など、様々な技術を要していたのだろう。
「五穀の種」は文字通り、「五種類の穀物」を意味していたのは間違いない。
そして、この中に「稲」が含まれていた可能性は非常に高い。
「東シナ海渡来説」の検証
中国の江蘇省に徐阜(じょふ)村という名前の村があるが、実は清朝以前は徐福村という名前だった。
この徐福村が徐福の出身地なのではないかと考えられている。
位置的には山東半島の付け根に近い部分なので、揚子江下流域ではないけど、徐福村から舟で東に進めば、ちょうど北九州あたりに到達する。
もう一つ注目したいのは、人口が急激に増えているという事だ。
縄文中期の日本の人口は約26万人と推定されていて、その内訳は東日本25万人、西日本1万人といわれている。
つまり、縄文時代までの日本は東日本中心に動いていたという事だ。
ところが弥生時代になると、九州を中心として急激に人口が増加する。
その後の歴史を見てもらえばわかるが、鎌倉幕府を例外とすれば、徳川家康が江戸に幕府を開くまでの間、ずっと西日本中心に動くようになる。
何故、弥生時代以降、西日本中心になっていったのか。
徐福と共に「童の男女3000人」が北九州に上陸し、稲を代表とする「五種類の穀物」と「百工」の様々な技術を日本人に伝え、まず九州地方の生活が向上し、結果的には、それが西日本全体に広がったからだと思う。
これは メッセージ 8333 (bakajaps さん)への返信です.