日本人とチョンの違い、さっすがちがうわ!
投稿者: akanbei_21c 投稿日時: 2005/12/10 15:51 投稿番号: [31476 / 35788]
>日本人は特別扱いしてくれる、と思ってろ。
>黄色いのも黒いのも、あいつらは基本的にNo thnk youなんだよ、ばかやろー
日本人の場合
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http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-2marry.htm
日系人の場合
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第百大隊、弟442連隊
ローマを目指して連合軍の進撃が始まり、第100歩兵大隊は、ノルマンディー、バルジ、硫黄島と並ぶ激戦「モンテ・カッシーノの戦い」に加った。独軍は機甲師団を主力に、降下猟兵師団、装甲擲弾連隊、重砲陣地といった圧倒的な戦力で連合軍を待ち構えており、激戦は必至だった。
1944年1月17日。遂に連合軍の総攻撃が開始された。だが開戦と同時に激しい砲撃を受けた連合軍は早くも敗色が濃厚となっていた。あちこちで戦線が崩れると共に、補給線は消滅して物資が届かず、負傷者の後送すら出来ない。命令系統は寸断され、下士官が部隊を指揮するという、混乱の極地に達していた。
第100歩兵大隊も強力な砲火に晒され、負傷者が続出した。さらに悪いことに、両翼の英軍、仏軍は全滅し、第100歩兵大隊だけが戦線に取り残されるという最悪の状況であった。弾も食料も尽き、医薬品も全く無く部隊には負傷者しかいないという極限の中、第100歩兵大隊は深く塹壕を掘り、ただひたすらに戦い続けた。
連合軍の部隊のほとんどが敗走し再編成を行っている中、最前線にはいまだ第100歩兵大隊の姿があった。いまや第100歩兵大隊は連合軍に唯一残された橋頭堡となっていたのだ。
物資が尽きた独軍が後退を開始すると、第100歩兵大隊は先陣に立って追撃を開始した。この攻撃が呼び水となり、連合軍は一気に独軍を攻撃し、モンテ・カッシーノの戦いに勝利する事が出来たのである。
ようやく友軍と合流できた第100歩兵大隊を見た軍の上層部は、最前線が如何に凄惨なものであったのかを知る事となった。第100歩兵大隊は負傷率97%、死亡率50%という大損害を出しながら戦っていたのである。通常60%以上の被害を受けた部隊は「全滅・戦闘続行不可能」とされ部隊の再編成が行われる。また米軍では60%を超える損耗を受ける部隊は稀であった為、第100歩兵大隊の97%という被害は尋常ではなかったのだ。
しかし彼らは尚も進撃を主張し、前線から離れなかった。これにはさすがの上層部も「もういい!お前達は充分、よくやった!もうドイツ野郎は逃げちまったよ!」と後方での休養を勧めたものの「俺達が戦っているのはドイツ軍じゃない。俺達は差別や偏見と戦っているんだ。それに勝つには命をかけて頑張るしかないんだ」と言い放ち、進んで前線に立ち続けた。また部隊の負傷者達は病院を抜け出し、すぐに原隊へと復帰していった。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ssbohe/one_goforbroke.htm
<チョンの場合>
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生き残った老僧の証言
"1969年 10月14日, ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した. サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒, 同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. <AFP通信>は、この事件で71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"
(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.)
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
>黄色いのも黒いのも、あいつらは基本的にNo thnk youなんだよ、ばかやろー
日本人の場合
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http://ww31.tiki.ne.jp/~isao-o/battleplane-2marry.htm
日系人の場合
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第百大隊、弟442連隊
ローマを目指して連合軍の進撃が始まり、第100歩兵大隊は、ノルマンディー、バルジ、硫黄島と並ぶ激戦「モンテ・カッシーノの戦い」に加った。独軍は機甲師団を主力に、降下猟兵師団、装甲擲弾連隊、重砲陣地といった圧倒的な戦力で連合軍を待ち構えており、激戦は必至だった。
1944年1月17日。遂に連合軍の総攻撃が開始された。だが開戦と同時に激しい砲撃を受けた連合軍は早くも敗色が濃厚となっていた。あちこちで戦線が崩れると共に、補給線は消滅して物資が届かず、負傷者の後送すら出来ない。命令系統は寸断され、下士官が部隊を指揮するという、混乱の極地に達していた。
第100歩兵大隊も強力な砲火に晒され、負傷者が続出した。さらに悪いことに、両翼の英軍、仏軍は全滅し、第100歩兵大隊だけが戦線に取り残されるという最悪の状況であった。弾も食料も尽き、医薬品も全く無く部隊には負傷者しかいないという極限の中、第100歩兵大隊は深く塹壕を掘り、ただひたすらに戦い続けた。
連合軍の部隊のほとんどが敗走し再編成を行っている中、最前線にはいまだ第100歩兵大隊の姿があった。いまや第100歩兵大隊は連合軍に唯一残された橋頭堡となっていたのだ。
物資が尽きた独軍が後退を開始すると、第100歩兵大隊は先陣に立って追撃を開始した。この攻撃が呼び水となり、連合軍は一気に独軍を攻撃し、モンテ・カッシーノの戦いに勝利する事が出来たのである。
ようやく友軍と合流できた第100歩兵大隊を見た軍の上層部は、最前線が如何に凄惨なものであったのかを知る事となった。第100歩兵大隊は負傷率97%、死亡率50%という大損害を出しながら戦っていたのである。通常60%以上の被害を受けた部隊は「全滅・戦闘続行不可能」とされ部隊の再編成が行われる。また米軍では60%を超える損耗を受ける部隊は稀であった為、第100歩兵大隊の97%という被害は尋常ではなかったのだ。
しかし彼らは尚も進撃を主張し、前線から離れなかった。これにはさすがの上層部も「もういい!お前達は充分、よくやった!もうドイツ野郎は逃げちまったよ!」と後方での休養を勧めたものの「俺達が戦っているのはドイツ軍じゃない。俺達は差別や偏見と戦っているんだ。それに勝つには命をかけて頑張るしかないんだ」と言い放ち、進んで前線に立ち続けた。また部隊の負傷者達は病院を抜け出し、すぐに原隊へと復帰していった。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ssbohe/one_goforbroke.htm
<チョンの場合>
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生き残った老僧の証言
"1969年 10月14日, ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した. サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒, 同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. <AFP通信>は、この事件で71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"
(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.)
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
これは メッセージ 31458 (apoon5 さん)への返信です.