朝鮮通信使?
投稿者: trouble_maker005 投稿日時: 2005/01/06 18:49 投稿番号: [28285 / 35788]
あの和紙とかスキ紙の作り方を教わって帰っていたのに。
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_8&nid=955752&work=search&st=writer&sw=kgbdead&cp=1
第11次朝鮮通信使節(1763〜1764)の一員だった金仁謙の日本紀行文「日東壮遊歌」
第11次朝鮮通信使節(1763〜1764)の一員だった
金仁謙の日本紀行文「日東壮遊歌」(高島淑郎訳注 平凡社東洋文庫 )より。
大阪を見ての驚き
「三神山の金闕銀台とは まことこの地のことであろう」
「人家が塀や軒をつらね その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である」
「北京を見たという訳官が一行に加わっているが かの中原の壮麗さもこの地には及ばないという」
名古屋を見ての驚き
「山川広闊にして 人口の多さ 田地の肥沃 家々の贅沢なつくり 遠路随一といえる
中原にも見あたらないであろう 朝鮮の三京も大層立派であるが この地に比べれば寂しい限りである」
江戸を見ての驚き
「楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい 男女の華やかさ 城郭の整然たる様 橋や船にいたるまで
大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える」
京都を見ての電波(笑)
「惜しんで余りあることは この豊かな金城湯池が 倭人の所有するところとなり 帝だ皇だと称し
子々孫々に伝えられていることである この犬にも等しい輩を 皆ことごとく掃討し
四百里六十州を 朝鮮の国土とし 朝鮮王の徳をもって 礼節の国にしたいものだ
8月23日
(釜山にて)
悲しいかな壬辰の年 このように地の利を得たところ
忠武公李舜臣将軍が防備をしていれば
倭兵がいかに強さを誇ろうと 上陸を許しはしなかったろう
三京が陥落 王は都落ち
国まさに滅ぶかに見えたそのとき 明皇帝の思し召しあり
天兵の来援を得て ようやく難を免れたのである
にもかかわらず奸臣が国の前途を誤り 講和するとは何事か
恥辱と憤怒の倭への道を 11回目に辿ることになろうとは
不倶戴天の恨みを忘れ果ててよく行けるものだ
①明皇帝の思し召しあり 天兵の来援を得て
天兵とは、明(中国)の兵隊のことです。
②奸臣
奸臣とは、日本軍と講和交渉をした明の特使である沈惟敬のことです。
③恥辱と憤怒の倭への道を 11回目に辿ることになろうとは
この日記を書いた金仁謙は、第11次 朝鮮通信使の一員です。
朝鮮は独立国じゃなく、あくまで清の属国としての扱いでしかないから。で、結局、四拝礼をさせられていたんだぞ。
従事官の書記金仁謙は、小童の死で何かを思ったのであろう。江戸城での公式行事の出席を拒んだ。その理由を『日東壮遊歌』では次のように述べている。
「国書伝達のときを迎える。使臣方は朝服を召され、軍官らは軍服、文士訳官は官服に身を整える。使臣方の輿が従卒らに担がれ、笛や太鼓を打ち鳴らし、清道旗を持った騎乗の旗手六人と行進するが、私はひとりつらつら考えた末、儒者の身として、いたずらに城内に入り、関白(将軍)に四拝するなど、この上ない恥辱と思い、参列は取り止め休むことにする」
この四拝礼に関しては、日朝間で激しい論議がたたかわされた。
四拝礼とは臣下の礼をとることであるから承服できないというのが、朝鮮側の言い分であった。しかし日本側も使臣は王にあらず、臣であるとゆずらなかった。結局は朝鮮側が折れて、江戸城での四拝礼は日本の将軍に対するのではなく、将軍の横に置かれた朝鮮国王の国書に対して四拝礼するのだと、自らを納得させて折り合ったのである。
四拝礼は八代将軍吉宗のときに慣例になったようだが、この意地の張り合いを見事破ってみせた将軍がいる。病弱といわれた九代将軍家重で、彼は同じ盃で酒のやりとりをし、三使を感激させたそうだ。金仁謙はそれから十六年後に来日した使節なのであった。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/chosen/chapter5/01chosen.htm
http://bbs.enjoykorea.naver.co.jp/jaction/read.php?id=enjoyjapan_8&nid=955752&work=search&st=writer&sw=kgbdead&cp=1
第11次朝鮮通信使節(1763〜1764)の一員だった金仁謙の日本紀行文「日東壮遊歌」
第11次朝鮮通信使節(1763〜1764)の一員だった
金仁謙の日本紀行文「日東壮遊歌」(高島淑郎訳注 平凡社東洋文庫 )より。
大阪を見ての驚き
「三神山の金闕銀台とは まことこの地のことであろう」
「人家が塀や軒をつらね その賑わいの程は我が国の錘絽(ソウルの繁華街)の万倍も上である」
「北京を見たという訳官が一行に加わっているが かの中原の壮麗さもこの地には及ばないという」
名古屋を見ての驚き
「山川広闊にして 人口の多さ 田地の肥沃 家々の贅沢なつくり 遠路随一といえる
中原にも見あたらないであろう 朝鮮の三京も大層立派であるが この地に比べれば寂しい限りである」
江戸を見ての驚き
「楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい 男女の華やかさ 城郭の整然たる様 橋や船にいたるまで
大阪、西京(京都)より三倍は勝って見える」
京都を見ての電波(笑)
「惜しんで余りあることは この豊かな金城湯池が 倭人の所有するところとなり 帝だ皇だと称し
子々孫々に伝えられていることである この犬にも等しい輩を 皆ことごとく掃討し
四百里六十州を 朝鮮の国土とし 朝鮮王の徳をもって 礼節の国にしたいものだ
8月23日
(釜山にて)
悲しいかな壬辰の年 このように地の利を得たところ
忠武公李舜臣将軍が防備をしていれば
倭兵がいかに強さを誇ろうと 上陸を許しはしなかったろう
三京が陥落 王は都落ち
国まさに滅ぶかに見えたそのとき 明皇帝の思し召しあり
天兵の来援を得て ようやく難を免れたのである
にもかかわらず奸臣が国の前途を誤り 講和するとは何事か
恥辱と憤怒の倭への道を 11回目に辿ることになろうとは
不倶戴天の恨みを忘れ果ててよく行けるものだ
①明皇帝の思し召しあり 天兵の来援を得て
天兵とは、明(中国)の兵隊のことです。
②奸臣
奸臣とは、日本軍と講和交渉をした明の特使である沈惟敬のことです。
③恥辱と憤怒の倭への道を 11回目に辿ることになろうとは
この日記を書いた金仁謙は、第11次 朝鮮通信使の一員です。
朝鮮は独立国じゃなく、あくまで清の属国としての扱いでしかないから。で、結局、四拝礼をさせられていたんだぞ。
従事官の書記金仁謙は、小童の死で何かを思ったのであろう。江戸城での公式行事の出席を拒んだ。その理由を『日東壮遊歌』では次のように述べている。
「国書伝達のときを迎える。使臣方は朝服を召され、軍官らは軍服、文士訳官は官服に身を整える。使臣方の輿が従卒らに担がれ、笛や太鼓を打ち鳴らし、清道旗を持った騎乗の旗手六人と行進するが、私はひとりつらつら考えた末、儒者の身として、いたずらに城内に入り、関白(将軍)に四拝するなど、この上ない恥辱と思い、参列は取り止め休むことにする」
この四拝礼に関しては、日朝間で激しい論議がたたかわされた。
四拝礼とは臣下の礼をとることであるから承服できないというのが、朝鮮側の言い分であった。しかし日本側も使臣は王にあらず、臣であるとゆずらなかった。結局は朝鮮側が折れて、江戸城での四拝礼は日本の将軍に対するのではなく、将軍の横に置かれた朝鮮国王の国書に対して四拝礼するのだと、自らを納得させて折り合ったのである。
四拝礼は八代将軍吉宗のときに慣例になったようだが、この意地の張り合いを見事破ってみせた将軍がいる。病弱といわれた九代将軍家重で、彼は同じ盃で酒のやりとりをし、三使を感激させたそうだ。金仁謙はそれから十六年後に来日した使節なのであった。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/chosen/chapter5/01chosen.htm
これは メッセージ 28284 (inishieni さん)への返信です.