「桓武日王の生母」和氏夫人の墓探訪記
投稿者: davidpkjp 投稿日時: 2002/10/30 14:38 投稿番号: [96273 / 203793]
島国倭(日本)の天皇たちは誰か?
直ぐ古代韓国と韓国人の植民地としてとくに百済の侯國で分国だった島国倭の倭王たち(天皇)が直ぐ百済人たちだ.
だから現在の島国倭の倭政府(日本政府)が決して日王たちの墓を発掘しないのだ.
このような事実を分かっている島国倭の歴史学者と考古学者というの奴たちがこんなに自白している.
"日王の墓たちを発掘したら百済人々が出るだろう日本王の墓たちを発掘しない "と..
歴史的, 文化的, 人種的に島国倭(日本)と倭人(日本人)の恩人の国として韓国と韓国人に感謝して.
こんな劣等国家, 劣等民族として島国倭と倭人!!
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「桓武日王の生母」和氏夫人の墓探訪記 (2002.02.04)
昨年末、明仁日王が「私自身は桓武天皇(781〜806年に在位)の生母が百済武寧
王の子孫であるため、韓国との縁を感じる」と発言したことは、韓日両国だけで
なく、世界的にもニュースになった。桓武日王の生母は百済女性の和氏夫人(生年
未詳〜789)だった。後日、その名は日本式の高野新笠(たかののにいがさ)に変
わる。
筆者は明仁日王が韓国との縁を言及した直後、日本に渡った。桓武日王の生母
である和氏夫人の墓を直接訪れてみるためだった。しかし、墓を探すことは容易
ではなかった。真冬の冷たい風にあたりながら京都西部郊外の山を二日間さ迷っ
た挙句、やっと和氏夫人の大枝陵に辿り着いた。先月6日午後のことだった。
京都地域の他の王后陵は観光パンフレットにちゃんと表示されているにもかか
わらず、現在の「京都観光地図」や「京都観光案内」には百済女性の「高野新笠」
の「大枝陵」は表示されていない。
和氏夫人の墓の前には「光仁天皇皇后高野新笠大枝陵」と彫られた碑石が立っ
ていた。京都洛西の住宅団地を見下ろす山の頂上で和氏夫人はそっと息を殺して
1213年間、静かに横たわっていたのである。いざ、探し出してみて思うことは、
明らかに王后陵であるにも関わらず、なぜ私は二日間もあの山この山をさ迷わな
ければならなかったのだろう、ということだった。
大枝陵は、私が2時間余り留まる間、誰一人訪れる人もなく、静寂そのものだっ
た。和氏夫人は多分、こうして長い歴史を一人眠り続けていたのだろう。
和氏夫人は和乙継(やまとのおとつぐ)という百済王族の娘だった。和乙継は
倭王室で「和朝臣(やまとのあそみ)」として優待された臣下で、本来、百済武寧
王の子孫だった。「和(やまと)」という名字が百済武寧王の王姓であるだけに、
言ってみれば「日本」を象徴する「和」は百済王室と決して関係なくないのであ
る。和氏夫人は自分の父が倭王室の朝臣であったため白壁(709〜781)王子と結婚
したのである。この白壁王子が後日、光仁(770〜781在位)日王だ。光仁日王が即
位したのは61歳の時だった。
白壁王子が和氏夫人と結婚後、長男の山部(後日の桓武日王)が生まれたのは737年
のこと。彼女は後日、息子の桓武日王が即位してから8年目の789年、この世を去っ
た。
光仁日王は即位後、妃の中で最も年長者の和氏夫人ではなく、最も年の若い井
上(生年未詳〜775)を王后にした。当時、井上姫と光仁日王の間には11歳の他戸王
子(759〜775)がいた。光仁日王が即位した翌年の771年1月に生まれた他戸王子を
皇太子に立てたのである。
このことに誰よりも心を痛めたのは和氏夫人だっただろう。2カ月前、王后に選
ばれなかったことよりも、長男の山部王子が異母弟の他戸王子に継承権を奪われ
た悲しみがより大きかったはずだ。しかし、772年5月に紆余曲折の末、他戸王子
から皇太子資格を剥奪した朝廷は山部王子を皇太子に立てた。781年に即位した桓
武日王は母の和氏夫人を皇太夫人と称した。また、同母弟の早良親王を皇太子に
立てた。桓武日王は794年に遷都し、今の京都に平安宮を建設して、王宮の北側に
平野神社を建てた。ここの最も重要な祭神は他でもなく百済聖王だった。
和氏夫人の大枝陵に続いて桓武日王の柏原陵も訪れた。桓武王陵には何人か参
拝客がいた。そのうちある中年の日本人は明仁日王の発言を聞いたと話した。桓
武日王の生母の和氏夫人の墓を訪れたことがあるのかと聞いてみると、首を横に
振った。「どこにあるのか、到底分からなくて行けなかった」という答えだった。
直ぐ古代韓国と韓国人の植民地としてとくに百済の侯國で分国だった島国倭の倭王たち(天皇)が直ぐ百済人たちだ.
だから現在の島国倭の倭政府(日本政府)が決して日王たちの墓を発掘しないのだ.
このような事実を分かっている島国倭の歴史学者と考古学者というの奴たちがこんなに自白している.
"日王の墓たちを発掘したら百済人々が出るだろう日本王の墓たちを発掘しない "と..
歴史的, 文化的, 人種的に島国倭(日本)と倭人(日本人)の恩人の国として韓国と韓国人に感謝して.
こんな劣等国家, 劣等民族として島国倭と倭人!!
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「桓武日王の生母」和氏夫人の墓探訪記 (2002.02.04)
昨年末、明仁日王が「私自身は桓武天皇(781〜806年に在位)の生母が百済武寧
王の子孫であるため、韓国との縁を感じる」と発言したことは、韓日両国だけで
なく、世界的にもニュースになった。桓武日王の生母は百済女性の和氏夫人(生年
未詳〜789)だった。後日、その名は日本式の高野新笠(たかののにいがさ)に変
わる。
筆者は明仁日王が韓国との縁を言及した直後、日本に渡った。桓武日王の生母
である和氏夫人の墓を直接訪れてみるためだった。しかし、墓を探すことは容易
ではなかった。真冬の冷たい風にあたりながら京都西部郊外の山を二日間さ迷っ
た挙句、やっと和氏夫人の大枝陵に辿り着いた。先月6日午後のことだった。
京都地域の他の王后陵は観光パンフレットにちゃんと表示されているにもかか
わらず、現在の「京都観光地図」や「京都観光案内」には百済女性の「高野新笠」
の「大枝陵」は表示されていない。
和氏夫人の墓の前には「光仁天皇皇后高野新笠大枝陵」と彫られた碑石が立っ
ていた。京都洛西の住宅団地を見下ろす山の頂上で和氏夫人はそっと息を殺して
1213年間、静かに横たわっていたのである。いざ、探し出してみて思うことは、
明らかに王后陵であるにも関わらず、なぜ私は二日間もあの山この山をさ迷わな
ければならなかったのだろう、ということだった。
大枝陵は、私が2時間余り留まる間、誰一人訪れる人もなく、静寂そのものだっ
た。和氏夫人は多分、こうして長い歴史を一人眠り続けていたのだろう。
和氏夫人は和乙継(やまとのおとつぐ)という百済王族の娘だった。和乙継は
倭王室で「和朝臣(やまとのあそみ)」として優待された臣下で、本来、百済武寧
王の子孫だった。「和(やまと)」という名字が百済武寧王の王姓であるだけに、
言ってみれば「日本」を象徴する「和」は百済王室と決して関係なくないのであ
る。和氏夫人は自分の父が倭王室の朝臣であったため白壁(709〜781)王子と結婚
したのである。この白壁王子が後日、光仁(770〜781在位)日王だ。光仁日王が即
位したのは61歳の時だった。
白壁王子が和氏夫人と結婚後、長男の山部(後日の桓武日王)が生まれたのは737年
のこと。彼女は後日、息子の桓武日王が即位してから8年目の789年、この世を去っ
た。
光仁日王は即位後、妃の中で最も年長者の和氏夫人ではなく、最も年の若い井
上(生年未詳〜775)を王后にした。当時、井上姫と光仁日王の間には11歳の他戸王
子(759〜775)がいた。光仁日王が即位した翌年の771年1月に生まれた他戸王子を
皇太子に立てたのである。
このことに誰よりも心を痛めたのは和氏夫人だっただろう。2カ月前、王后に選
ばれなかったことよりも、長男の山部王子が異母弟の他戸王子に継承権を奪われ
た悲しみがより大きかったはずだ。しかし、772年5月に紆余曲折の末、他戸王子
から皇太子資格を剥奪した朝廷は山部王子を皇太子に立てた。781年に即位した桓
武日王は母の和氏夫人を皇太夫人と称した。また、同母弟の早良親王を皇太子に
立てた。桓武日王は794年に遷都し、今の京都に平安宮を建設して、王宮の北側に
平野神社を建てた。ここの最も重要な祭神は他でもなく百済聖王だった。
和氏夫人の大枝陵に続いて桓武日王の柏原陵も訪れた。桓武王陵には何人か参
拝客がいた。そのうちある中年の日本人は明仁日王の発言を聞いたと話した。桓
武日王の生母の和氏夫人の墓を訪れたことがあるのかと聞いてみると、首を横に
振った。「どこにあるのか、到底分からなくて行けなかった」という答えだった。
これは メッセージ 1 (retribution さん)への返信です.
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