なぜ韓国人は、嫌われるのか?

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中華思想を支えた冊封体制

投稿者: shuji5175 投稿日時: 2002/09/10 02:37 投稿番号: [82299 / 203793]
  冊封体制(中国皇帝を周辺諸国が天子として認め、その見返りに中国皇帝が周辺諸国の君主に王などの爵位を下賜することで成り立った東アジアの国際秩序で漢代に生まれ唐代に確立した)。中国側は夷狄の酋長が皇帝の徳を慕って臣従したという面子が立つし、周辺国は中国の先進文明の導入や貿易の利も「皇帝の恩恵として下賜されるもの」だったため莫大なものだった。また軍事的保護も期待できた。
  前漢のころには高句麗が王に封ぜられたが前漢を滅ぼした王莽が侯に格下げしたた離反。後漢に王に戻された。日本も奴国の帥升が倭王として金印を贈られている。新羅、百済も冊封を受けた。邪馬台国の卑弥呼が「親魏倭王」の冊封を受けた。聖徳太子が小野妹子を遣隋使に派遣し「天皇」と呼称を使い対等関係にしたが、それに続く遣唐使は中国側には朝貢関係としか見えなかった。
  新羅が唐の援助で半島を統一したことを否定的に捉えるべきではない。巧みな外交で唐を味方に引き入れたのだ。冊封の利益をフルに活用したと言えよう。また渤海も冊封を受けていると同時に日本と外交を持った。
  唐の終わりには冊封体制も揺らぐ、新羅、渤海が滅び、日本は遣唐使を廃止し、ベトナムが自立した。冊封体制は中国文化の導入や軍事的保護より貿易の利権に重心が移る。
  唐以後で冊封体制の再構築をしたのは明だ。モンゴルに支配されていた歴史やさらに南宋は金に北宋は遼と西夏に朝貢する屈辱を味わった歴史が最後の漢人王朝をむきにさせた。明は海禁を布き皇帝に冊封を受けない国とは交易をしないことにした。
  室町幕府の勘合貿易も将軍が明から日本国王の冊封を受けることが前提で行われた。琉球王国は冊封を明から受け、貿易国家として繁栄した。朝鮮は豊臣秀吉の侵略に際して明の支援を受けた。このころは明は衰微を極め朝鮮の役ののちは、マラッカ王国の滅亡や島津氏の琉球征服を止めることはできなかった。
  清朝のころには朝鮮やベトナムは冊封をうけた。琉球も日本の支配化にあって冊封を受けた。日本も将軍が対外的には「日本国王」だった。
  清朝がアヘン戦争以後、列強に守勢に立たされるころには日本は江戸幕府が倒れ明治政府が成立した。明治政府は西洋の国際社会のシステムを理解し江戸幕府が取り交わした不平等条約の廃止など自国の自力での独立に腐心した。ベトナムはフランスが食指を伸ばし清との冊封(近代の論理では「宗属」以下これを使用)関係を断ち切り植民地とした。
  朝鮮では両班の間で親清派、親露派、親日派に分かれて党争が繰り広げられ、日本が清との宗属関係を断ち切り、ロシアの南下政策を挫いた。ついに日本が大韓帝国(1897年に朝鮮から改称)を1910年に植民地にした。大韓帝国は憲法、議会、選挙制度など近代国家の基礎となるものをついに作ることはなかった。日本の威嚇があったが皇帝と内閣を構成した両班は臣民を国民として糾合して立ち向かうことはしなかった。臣民はかれらにとっては搾取すべき対象にしか見えなかった。皇帝は内閣の副署がなされた日韓併合条約に御名御璽をついた。皇帝は王族の称号と礼遇と歳費200万円を保証され、閣僚は爵位と一時金を日本政府から与えられた。
  時代の流れによって変わってきた中国による秩序「冊封体制」。アヘン戦争でそれは西洋の近代国際社会に取って代わられた。朝鮮はそれに柔軟に対応できなかった。具体的な打開策をとれずに滅亡した。「冊封体制」は儒教の論理に基づいたものだ。そして朱子学の「華夷秩序」によって強化された。朱子学をドグマとした朝鮮が日本のように方向転換できなかったのはいうまでもない。
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