従軍慰安婦の証言
投稿者: akazukinn1 投稿日時: 2002/08/21 22:22 投稿番号: [77042 / 203793]
>「13人全員が嘘をつくとは考えられない」という仮定に基づいた思考だけど、なぜ13人なのか?多くの元慰安婦のうち、嘘の証言に賛同した13人を韓国政府が選定した、とも考えられる。
自分から「売春」をやってたと証言するには勇気がいります。13人の元慰安婦は勇気ある証人と言っていいでしょう。彼女等は金銭など欲してるとはとても思えません。彼女等は人として最後の誇りの為に恥を忍んで証言に立ったのです。これは氷山の一角と見た方がいいと思います。表に出ない慰安婦は数知れないのではないでしょうか?
【92年7月31日、韓国政府も中間報告書を発表しました。この報告書は主に元慰安婦13人の証言をまとめたもので、日本の軍や行政機関が強制的に連行した様子をつぶさに書いています。それらを当時の新
聞から紹介します(毎日、92.8.1)。
(1)1938年8月、日本式の名前に強制的に変えさせる「創氏改名」に反
対したことを理由に家族が警察に連行された。「愛国奉仕隊」に志願すれば父
が釈放されると聞き志願した。しかし、すぐに慰安婦にされジャカルタに連れ
て行かれた。途中で不妊手術を受けた。46年、船で帰国した。
(2)43年1月、一人で家で留守番をしていると、見知らぬ男が入ってきて
「用事がある」といって連れ出され、そのまま満州(当時、現在中国東北部)
に移動させられた。2坪の部屋で1日平均20人の軍人の相手をさせられた。
拒んだり、韓国語を使うと殴られた。1週間に一度性病の検査があり、感染者
は治療を受けたが、完治すると再び、元の生活に戻った。
(3)43年9月ごろ、釜山鎮駅前で日本の警察に連行された。警察署で待機
したあと、船で大阪に連れて行かれた。慰安婦生活に苦しみ脱出をはかったが、
捕まり殴られ負傷した。治療も受けさせてもらえず、慰安婦生活を強要された。
(4)37年4月、日本人から砂糖工場で働かないかといわれ、現地に行った
ら日本軍の慰安所だった。南洋諸島でいろいろな島に連れて行かれた。
(5)41年2月ごろ、日本人女子一人と韓国人男子一人がやってきて、釜山
の工場への就職を勧誘した。やく50人が移送された。日本で強制挑発され、
日本軍部隊で1日12人ー15人の相手をさせられた。部隊の移動により、シ
ンガポールに移送され、そのあと、中国各地を転々とし、慰安婦生活を強要さ
れた。現地では、年齢が高い人の半分以上が死んだようだ。
(6)38年12月、家に軍人20人がやって来て銃剣を突きつけた。強制的
に軍用トラックに乗せられ、倉庫に押し込められた。15人の女性とともに列
車に乗せられた。途中の駅でほかの15人の女性と合流、中国の天津の「日の
丸部隊」に到着した。
(7)44年9月、紡績工場で夜間操業中、武装した日本の軍人が15人入っ
てきた。かれらは「日本で看護婦で働くことになった」と話した。おかしいと
気がつき逃げたが、49人が捕まった。横浜と広島で慰安婦として働いた。軍
人と同じ生活を強いられ、自由はなかった。49人のうち生き残ったのは自分
だけで、自殺したり、病死した。
こうした生々しい証言を締めくくって報告書は「慰安婦問題は日本の植民統治で我が民族が経験した受難のうちで最も暗い面を示している」と結論づけています。】
自分から「売春」をやってたと証言するには勇気がいります。13人の元慰安婦は勇気ある証人と言っていいでしょう。彼女等は金銭など欲してるとはとても思えません。彼女等は人として最後の誇りの為に恥を忍んで証言に立ったのです。これは氷山の一角と見た方がいいと思います。表に出ない慰安婦は数知れないのではないでしょうか?
【92年7月31日、韓国政府も中間報告書を発表しました。この報告書は主に元慰安婦13人の証言をまとめたもので、日本の軍や行政機関が強制的に連行した様子をつぶさに書いています。それらを当時の新
聞から紹介します(毎日、92.8.1)。
(1)1938年8月、日本式の名前に強制的に変えさせる「創氏改名」に反
対したことを理由に家族が警察に連行された。「愛国奉仕隊」に志願すれば父
が釈放されると聞き志願した。しかし、すぐに慰安婦にされジャカルタに連れ
て行かれた。途中で不妊手術を受けた。46年、船で帰国した。
(2)43年1月、一人で家で留守番をしていると、見知らぬ男が入ってきて
「用事がある」といって連れ出され、そのまま満州(当時、現在中国東北部)
に移動させられた。2坪の部屋で1日平均20人の軍人の相手をさせられた。
拒んだり、韓国語を使うと殴られた。1週間に一度性病の検査があり、感染者
は治療を受けたが、完治すると再び、元の生活に戻った。
(3)43年9月ごろ、釜山鎮駅前で日本の警察に連行された。警察署で待機
したあと、船で大阪に連れて行かれた。慰安婦生活に苦しみ脱出をはかったが、
捕まり殴られ負傷した。治療も受けさせてもらえず、慰安婦生活を強要された。
(4)37年4月、日本人から砂糖工場で働かないかといわれ、現地に行った
ら日本軍の慰安所だった。南洋諸島でいろいろな島に連れて行かれた。
(5)41年2月ごろ、日本人女子一人と韓国人男子一人がやってきて、釜山
の工場への就職を勧誘した。やく50人が移送された。日本で強制挑発され、
日本軍部隊で1日12人ー15人の相手をさせられた。部隊の移動により、シ
ンガポールに移送され、そのあと、中国各地を転々とし、慰安婦生活を強要さ
れた。現地では、年齢が高い人の半分以上が死んだようだ。
(6)38年12月、家に軍人20人がやって来て銃剣を突きつけた。強制的
に軍用トラックに乗せられ、倉庫に押し込められた。15人の女性とともに列
車に乗せられた。途中の駅でほかの15人の女性と合流、中国の天津の「日の
丸部隊」に到着した。
(7)44年9月、紡績工場で夜間操業中、武装した日本の軍人が15人入っ
てきた。かれらは「日本で看護婦で働くことになった」と話した。おかしいと
気がつき逃げたが、49人が捕まった。横浜と広島で慰安婦として働いた。軍
人と同じ生活を強いられ、自由はなかった。49人のうち生き残ったのは自分
だけで、自殺したり、病死した。
こうした生々しい証言を締めくくって報告書は「慰安婦問題は日本の植民統治で我が民族が経験した受難のうちで最も暗い面を示している」と結論づけています。】
これは メッセージ 77015 (sashissu さん)への返信です.
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