ノーベル賞獲得作戦
投稿者: oyaji2001ip 投稿日時: 2002/07/17 11:51 投稿番号: [66582 / 203793]
韓国人のノーベル文学賞コンプレックスには実に凄まじいものがある。まるで当然もらって然るべきものを貰えないかのように考える韓国の知識人たちは数多い。それも外でもない日本人が複数受賞していて、中国でも大陸人ではないものの、在米中国人が複数受賞しているのに韓国人が貰えないとは、同じ東洋の「文化国民」を誇る民族として、これ以上もどかしくて面子がまるでつぶれる事があろうかと、地団駄を踏むのである。
高名な在米韓国人の文筆家、ピーター玄の回顧録を読むと、韓国内の「ノーベル賞熱」に関する事情が記されていて、実に興味津々である。
1980年代初頭から韓国の文壇と出版社・文学団体などが、韓国の作家・詩人達の誰かを、その歴史に輝かしく刻まれるノーベル賞の候補にすべく、盛んに熱を上げたという。
198一年の国際オリンピック委員会で、ソウルが1988年のオリンピック開催地の決定を受けると、この熱気に便乗してノーベル賞熱は急激に蔓延した。先ずスウェーデンのノーベル財団に送りこむ「韓国文学作品選定特別委員会」が急遽結成されるとともに、その作品の翻訳作業が急ピッチで進められた。ある文学評論家たちは「ソウル・オリンピックが開催される前に、韓国は絶対ノーベル文学賞を勝ち取らねばならない」と叫ぶまでに至った。
かくしてソウルのある文学財団が中心となって、韓国の小説と詩の主だった作品を英文に翻訳したのだが、そのレベルがあまりにも粗雑で稚拙だった上に、その英語版はほとんど出版活動もしていないアメリカのとある出版社の名義で刊行された。また滑稽な事に、その本がアメリカに上陸する前であるにもかかわらず、あたかもアメリカで既に出版され、大変高い評価を受けたかのように宣伝されたのである。
結局ピーター玄の言葉によると、
「誰が見ても文法も間違っていて誤字だらけのでたらめな翻訳書は、アメリカに送られて親しい人たちや地方の図書館、在米韓国人のための書店などに配布されただけだった。」
「この文学財団は、そのうち売り切れた本が三巻あったと主張したが、実際には誰も買う人は折らず、在米韓国人書店で腐っていた。」
ピーター玄は続いて、韓国の小説が持っている致命的な弱点に付いて鋭い指摘をした。
「私が思うに、韓国の小説、特に大河小説などは、大部分基礎的な芸術形式が欠如していて、またストーリーの流れがひどく非論理的だ。」
「これらの作家達は、形式と内容の調和的融合がなされてこそ、初めて真の芸術性が生れると言う真理が分からないようだ。」
韓国の小説に世界的に読まれ得る普遍性と魅力が無い限り、ノーベル賞は永遠の白昼夢に過ぎない。
私が見たところ、日本でも韓国の小説はほとんど読まれていないし、中国でも韓国文学は元より市場は無く、ほとんど人気が無いのが現実である。
熱い鍋のように沸騰したノーベル文学賞熱も、こうして冷め切ってしまった。なんとしてでも賞を獲らねばならぬと叫んで、翻訳さえすればノーベル賞が受賞できるとばかり思い込むその発想自体が、いかに幼稚で拙劣かを自ら暴露した出来事であったと言えるだろう。
ソウルの大型書店での珍風景
ソウルの大型書店である教保文庫に立寄るたびに、私はいつも妙な気分に襲われる。正面の通路の両側に、世界の歴代のノーベル文学賞受賞者の肖像画がずらっと並べて掛けられているのだ。ところが日本の川端康成、大江健三郎など四十人の肖像画の中に、一つだけ奇妙なことに顔のない額がある。その下の説明文が面白い。
「ご主人をお待ちしています。(Reserved for Future Korean Nobel Prize Winner)」
つまり将来の韓国人受賞者のために空けてあるという意味なのだ。私はその顔のない額と説明文を見て失笑してしまった。「餅を呉れるつもりもないのにキムチの汁から先に飲む」という韓国の諺が思い浮かんだ。
ノーベル賞に対する胸焦がれる熱望は理解できるが、このような公的な場所で表現すると言う行為自体が、やはり韓国人の幼稚さを物語っている。韓国人はあたかも、当然貰って然るべきボーナスを受け取れないサラリーマンの、憤懣やるかたない心情を抱いているようだ。実際その国力と聡明な頭脳を持ってすれば、十回受賞しても可笑しくない筈だとしきりに口惜しがるインテリの韓国人もいた
高名な在米韓国人の文筆家、ピーター玄の回顧録を読むと、韓国内の「ノーベル賞熱」に関する事情が記されていて、実に興味津々である。
1980年代初頭から韓国の文壇と出版社・文学団体などが、韓国の作家・詩人達の誰かを、その歴史に輝かしく刻まれるノーベル賞の候補にすべく、盛んに熱を上げたという。
198一年の国際オリンピック委員会で、ソウルが1988年のオリンピック開催地の決定を受けると、この熱気に便乗してノーベル賞熱は急激に蔓延した。先ずスウェーデンのノーベル財団に送りこむ「韓国文学作品選定特別委員会」が急遽結成されるとともに、その作品の翻訳作業が急ピッチで進められた。ある文学評論家たちは「ソウル・オリンピックが開催される前に、韓国は絶対ノーベル文学賞を勝ち取らねばならない」と叫ぶまでに至った。
かくしてソウルのある文学財団が中心となって、韓国の小説と詩の主だった作品を英文に翻訳したのだが、そのレベルがあまりにも粗雑で稚拙だった上に、その英語版はほとんど出版活動もしていないアメリカのとある出版社の名義で刊行された。また滑稽な事に、その本がアメリカに上陸する前であるにもかかわらず、あたかもアメリカで既に出版され、大変高い評価を受けたかのように宣伝されたのである。
結局ピーター玄の言葉によると、
「誰が見ても文法も間違っていて誤字だらけのでたらめな翻訳書は、アメリカに送られて親しい人たちや地方の図書館、在米韓国人のための書店などに配布されただけだった。」
「この文学財団は、そのうち売り切れた本が三巻あったと主張したが、実際には誰も買う人は折らず、在米韓国人書店で腐っていた。」
ピーター玄は続いて、韓国の小説が持っている致命的な弱点に付いて鋭い指摘をした。
「私が思うに、韓国の小説、特に大河小説などは、大部分基礎的な芸術形式が欠如していて、またストーリーの流れがひどく非論理的だ。」
「これらの作家達は、形式と内容の調和的融合がなされてこそ、初めて真の芸術性が生れると言う真理が分からないようだ。」
韓国の小説に世界的に読まれ得る普遍性と魅力が無い限り、ノーベル賞は永遠の白昼夢に過ぎない。
私が見たところ、日本でも韓国の小説はほとんど読まれていないし、中国でも韓国文学は元より市場は無く、ほとんど人気が無いのが現実である。
熱い鍋のように沸騰したノーベル文学賞熱も、こうして冷め切ってしまった。なんとしてでも賞を獲らねばならぬと叫んで、翻訳さえすればノーベル賞が受賞できるとばかり思い込むその発想自体が、いかに幼稚で拙劣かを自ら暴露した出来事であったと言えるだろう。
ソウルの大型書店での珍風景
ソウルの大型書店である教保文庫に立寄るたびに、私はいつも妙な気分に襲われる。正面の通路の両側に、世界の歴代のノーベル文学賞受賞者の肖像画がずらっと並べて掛けられているのだ。ところが日本の川端康成、大江健三郎など四十人の肖像画の中に、一つだけ奇妙なことに顔のない額がある。その下の説明文が面白い。
「ご主人をお待ちしています。(Reserved for Future Korean Nobel Prize Winner)」
つまり将来の韓国人受賞者のために空けてあるという意味なのだ。私はその顔のない額と説明文を見て失笑してしまった。「餅を呉れるつもりもないのにキムチの汁から先に飲む」という韓国の諺が思い浮かんだ。
ノーベル賞に対する胸焦がれる熱望は理解できるが、このような公的な場所で表現すると言う行為自体が、やはり韓国人の幼稚さを物語っている。韓国人はあたかも、当然貰って然るべきボーナスを受け取れないサラリーマンの、憤懣やるかたない心情を抱いているようだ。実際その国力と聡明な頭脳を持ってすれば、十回受賞しても可笑しくない筈だとしきりに口惜しがるインテリの韓国人もいた
これは メッセージ 1 (retribution さん)への返信です.
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