>ご自分の先祖がされた悪行
投稿者: han_han_7 投稿日時: 2002/05/06 21:06 投稿番号: [50630 / 203793]
侵略・略奪行為を歴史的に初めに行ったのは、高麗です。元寇の時の高麗軍の略奪、侵略行為は残虐の限りを尽くしました。
島民を奴隷として連行する、女性の手に穴を開けてつないで連行する。
例えば
文永の役では次のような状態です
>「10月14日16時頃、壱岐の北西海岸、天ケ原付近と本宮海岸に大船
二艘から四百人が上陸した。守護代平景隆は、居城を出て勝本方面に向
い、家来百余騎を率いて庄の三郎ケ城(樋詰城)前で矢合わせをする。敵は
赤旗を立て東方を三度拝むと矢を射かけてきた。敵の矢は二町(220m)景
隆の方は一町(109m)と差があり、じりじりと押され、残る者僅か二十〜
三十騎となった。数時間の戦いの後、日暮れと共に敵は退却したので城を
守ることにして樋詰城に引き揚げた。
よく15日の朝、城は包囲され、敵は城内への突撃を繰り返した。景隆
の方もよく戦ったが遂に敵の城内侵入となり、自らも傷ついたので、家来
の宗三郎を大宰府に急を告げさせ城内で自害した。宗三郎は18日に到着
した。
その後、元軍は島民を見つけ次第、男子は斬殺し、女子は手の掌に穴を
あけて綱を通し船舷にぶらさげるなど残虐の限りをつくした。家屋は焼き
尽くされ、家畜の被害も甚大で、壱岐牛も一頭もいなくなった。」となる
のでしょうか。
「ムクリ・コクリ」が来る、と言うと泣く子も黙ると言われたほど、そ
の残虐な行為は壱岐・対馬・北九州の人達に恐怖感を植えつけています。
ムクリー蒙古―元、コクリー高麗のことです。「蒙古トハ異国ムクリノ事
也」(『沙汰未練書』)というようにムクリが通用していました。
合浦に帰還した元軍を高麗王は使者をだして、ねぎらっています。帰還
兵は日本から捕らえてきた「童男女二百人」を高麗王に献上しています。
この戦利品とされた子供達は、壱岐・対馬の少年・少女だったと思われま
す。(『高麗史』)
この様な他国の侵略から守るために、この地域で神社などが作られた歴史も知るべきです。
これは メッセージ 50536 (yellow_monkey_ukiuki さん)への返信です.
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