参考資料
投稿者: kankokuno1 投稿日時: 2002/04/03 01:20 投稿番号: [43965 / 203793]
身分制度、両班の横暴
韓国誌 302頁、311−312頁
「1894年の改革前には5箇の階級存在したり。即ち貴族(両班)、地方両班、中等民、平民、奴隷是なり。……然れどもこの条例は今日まで多くは死文に属し、……奴隷の1897年に至も猶公然存在するは其の一例なり。」
「強請を為すの方式は驚くべき簡単にして、彼らはその助手を伴い、昼間もしくは夜間に富裕なる商業或いは工業家に侵入し、その主人を捕獲して顕官の家もしくはその他危険なき場所に引致して、従順にして要求を承認する物は遅滞なく放免し、もし要求せらるる額を払わざる者ある時は、笞杖もしくは絶食の苦を与え、之を払うまではその苦痛を免れざらしむ。多少廉恥心ある両班はこの如き略奪を借用の名義において行うと雖も、之を返済したる例なきにより、一人として之に信おく者なし。両班平民より土地家屋等を買い入れたるときは、多くはその代価を払うことなく、又物件を借りたるときも多くは之を返す事なきも平民は一人として決然之に抗する者なし」
奴隷
韓国誌 319頁
「又個人的随意契約により若しくは父母に売られて奴隷となるもありて、世襲奴隷と一時的奴隷とはその間厳重なる差違を存し、世襲奴隷の子女は常に奴隷となり、主人の承諾を得るにあらざれば絶対的にその自由を回贖するを得ざるも、一時的奴隷の子女は多くの場合において解放せられ、その奴隷自身も犯罪により奴隷と為りたるものを除くの外は、主人の意に反すとも一定の金額を納めて自由の身となることを得るなり。世襲奴隷は常に全く主人の専有物と見なされ、主人は之を売買し、貸与し、贈与しその他すべて随意に之を処分することを得。」
マッケンジー 27ー28頁、33頁、79頁、119−120頁
「監獄は呪詛の的となり、拷問は自由に行われていた。周期的な監獄清掃に際しては一時に数十人の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。」
「罪人たちがその首をはねられた後、鳥や犬に食わせるよう野っ原に放り出して置かれるのを見て、不快感を抱いたこともあろう。更に彼はしばしば行われた囚人に対する拷問や笞刑の光景を見て全く嫌になってしまったこともあるだろう。」
1906年夏(韓国を保護国化してから1年後)「二つの監獄を実際に訪れてみた。その最初のものは平壌で見たのであるが、そこでは18人の男と1人の女が一つの監房に閉じこめられているのを見た。その男たちのうちの数人は木の柱にくくりつけられていた。囚人たちはやせ衰えており、その身体は恐ろしい病気の明白な徴候を示していた。彼らの衣服は最低のものであり、その監房は筆舌につくし難いほどに不潔であり、何らの身体労働や労働もなしに、数年間も監房に閉じこめられたままなのであった。或囚人は6年もその監房に閉じこめられてきたと言うのであった。
次の監獄、宣川(そんちょん・平安北道)のそれはもっとひどかった。その監獄の中はとても暗くて、部屋に入ってからしばらくは何も見えないほどであったが、地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。」
コメント
マッケンジーは監獄の改善が遅々として進まないと伊藤統監を非難しているが、この時期日本は少数の顧問を送り込んだだけで、内政は韓国に委ねられていたのである。伊藤に対する期待が大きすぎた故の非難と考えるべきであろう。
天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形があり、日本時代が暗黒時代であったかのような印象を受ける。しかし日本は併合後このような厳しい拷問を止め、監獄を改善したのである。
韓国誌 302頁、311−312頁
「1894年の改革前には5箇の階級存在したり。即ち貴族(両班)、地方両班、中等民、平民、奴隷是なり。……然れどもこの条例は今日まで多くは死文に属し、……奴隷の1897年に至も猶公然存在するは其の一例なり。」
「強請を為すの方式は驚くべき簡単にして、彼らはその助手を伴い、昼間もしくは夜間に富裕なる商業或いは工業家に侵入し、その主人を捕獲して顕官の家もしくはその他危険なき場所に引致して、従順にして要求を承認する物は遅滞なく放免し、もし要求せらるる額を払わざる者ある時は、笞杖もしくは絶食の苦を与え、之を払うまではその苦痛を免れざらしむ。多少廉恥心ある両班はこの如き略奪を借用の名義において行うと雖も、之を返済したる例なきにより、一人として之に信おく者なし。両班平民より土地家屋等を買い入れたるときは、多くはその代価を払うことなく、又物件を借りたるときも多くは之を返す事なきも平民は一人として決然之に抗する者なし」
奴隷
韓国誌 319頁
「又個人的随意契約により若しくは父母に売られて奴隷となるもありて、世襲奴隷と一時的奴隷とはその間厳重なる差違を存し、世襲奴隷の子女は常に奴隷となり、主人の承諾を得るにあらざれば絶対的にその自由を回贖するを得ざるも、一時的奴隷の子女は多くの場合において解放せられ、その奴隷自身も犯罪により奴隷と為りたるものを除くの外は、主人の意に反すとも一定の金額を納めて自由の身となることを得るなり。世襲奴隷は常に全く主人の専有物と見なされ、主人は之を売買し、貸与し、贈与しその他すべて随意に之を処分することを得。」
マッケンジー 27ー28頁、33頁、79頁、119−120頁
「監獄は呪詛の的となり、拷問は自由に行われていた。周期的な監獄清掃に際しては一時に数十人の囚人を絞首してしまい、裁判は売買された。」
「罪人たちがその首をはねられた後、鳥や犬に食わせるよう野っ原に放り出して置かれるのを見て、不快感を抱いたこともあろう。更に彼はしばしば行われた囚人に対する拷問や笞刑の光景を見て全く嫌になってしまったこともあるだろう。」
1906年夏(韓国を保護国化してから1年後)「二つの監獄を実際に訪れてみた。その最初のものは平壌で見たのであるが、そこでは18人の男と1人の女が一つの監房に閉じこめられているのを見た。その男たちのうちの数人は木の柱にくくりつけられていた。囚人たちはやせ衰えており、その身体は恐ろしい病気の明白な徴候を示していた。彼らの衣服は最低のものであり、その監房は筆舌につくし難いほどに不潔であり、何らの身体労働や労働もなしに、数年間も監房に閉じこめられたままなのであった。或囚人は6年もその監房に閉じこめられてきたと言うのであった。
次の監獄、宣川(そんちょん・平安北道)のそれはもっとひどかった。その監獄の中はとても暗くて、部屋に入ってからしばらくは何も見えないほどであったが、地上に縛り付けられている3人の男がそこにいた。彼らの首と足は台柱にくくりつけられ、手は縛り合わされていた。部屋には明かりもなく通風窓もなかった。ただ僅かに壁に開けられた小さな穴があるだけであった。彼らの背には笞打ちで裂かれた恐ろしい傷跡があり、その手はきつく縛り付けた縄の為、所々骨が見えるほどに肉が裂けていた。そしてそれらの傷跡は、全く膿み放題になっていた。手足の上部は腫れ上がり、笞跡と水ぶくれができていた。1人の男の目はふさがっていて視力を失っており、まぶたからはたくさんの膿がたれ出ていた。多分両眼を笞でひっぱたかれたのであろう。男たちは終日動くこともなしに、こうして監禁されたままなのである。私は彼らを日の当たる場所に連れ出した。それは難しい作業であった。彼らのうちの1人は四肢が萎えてしまっていて、既に殆ど身体を動かすことが出来なくなっていた。彼らはみんな飢え衰えて、なにかを嘆願したり抗議したりする気力も失ってしまっていた。そこは私のこれまでに見た限りでの地獄への一歩手前であった。」
コメント
マッケンジーは監獄の改善が遅々として進まないと伊藤統監を非難しているが、この時期日本は少数の顧問を送り込んだだけで、内政は韓国に委ねられていたのである。伊藤に対する期待が大きすぎた故の非難と考えるべきであろう。
天安の独立記念館へ行くと、日本時代の拷問風景の蝋人形があり、日本時代が暗黒時代であったかのような印象を受ける。しかし日本は併合後このような厳しい拷問を止め、監獄を改善したのである。
これは メッセージ 1 (retribution さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/a4ja4bc4z9qbfma4oa1a27ya4oa4la4ka4na4aba1a9_1/43965.html