なかなか興味深いお話し・・
投稿者: aaaaaaaatui 投稿日時: 2001/09/04 04:30 投稿番号: [18893 / 203793]
産経新聞
平成13年9月3日(月曜日)付け
夕刊 二面
-話の肖像画-
-日韓の架け橋に- より
韓国語教育者W杯諮問委員
金 貞淑 (キム チョンスック)さん その4
-話を少し戻しましょう。お生まれは韓国のソウル市南郊にある水原市ですね。どんな少女時代でしたか
金 一九二九年生まれですから、日本の植民地時代です。実家は古くから続く両班(ヤンバン=良家の階級)で、私が生まれた家には、たくさんのお手伝いさんらがいました。特に、母はソウル出身の本当のお嬢さんで、何の苦労も知らない人でした。そんな家で、"おんば日傘"で育ったものですから、昔は家事も出来ずに困りました(笑い)。
-日本の植民地時代で苦労はしなかったのですか?
金 私自身は幼かったせいもあるんですが、苦労や嫌な思いをしたことはほとんどなかったんです。母がやりくり上手だったので、食べるものに困ったことはなかったし、近所に住んでいた日本人の方とも仲良くお付き合いしていただいた記憶があります。ただ、創始改名(金田)をさせられたり、学校で「日本語を使え」といわれるのが嫌で、たびたび休んだこともありました。
-大学は名門の梨花女子大ですね
金 ミッションスクールで、先輩、後輩の結束がすごく固い。金大中大統領の李姫鎬夫人も七年先輩で、「お姉さん」と慕っていました。ただ、大学で「体育」を専攻することになったのは母の画策。確かに幼いころからスポーツは何でも大好きでしたが、学問としてやる気はなかった。母は当時、女性が専攻することが少なかった体育をやらせ、将来は校長先生にならせたかったようです。
-当時、ご家族は
金 私は五人兄妹だったのですが、いずれも早世して、父も戦後間もなく亡くなりました。だから、ずっと母と二人暮らしの生活。母は心臓が悪かったので、日本へ行くときも残していくのが気がかりでした。東京教育大へ留学する際も「アメリカは遠いからだめだけど、日本は近いから、すぐに帰ってこられる」とやっと許してもらったぐらいでしたからね。
-その後、お母さんを日本に呼ばれたんですね
金 私は昭和五十年に筑波大の外国人教師になったんですが、筑波大の大学病院の心臓病の権威の先生が「私が治してあげるから」と日本で治療することを勧めてくださった。だから、母は筑波大病院の外国人入院患者第一号。健康保険がなくて困っていたら、筑波大の大学職員の方たちが、私が住んでいた東京まで順番に駆けつけて手続きをしてくださったんですよ。母は三年六ヶ月間、入院して亡くなりましたが、お葬式のときも言葉に言い尽せないほどお世話になり、母の件では、私はどれだけ泣いたか、わかりません。
聞き手
社会部次長 喜多由浩
-日韓の架け橋に- より
韓国語教育者W杯諮問委員
金 貞淑 (キム チョンスック)さん その4
-話を少し戻しましょう。お生まれは韓国のソウル市南郊にある水原市ですね。どんな少女時代でしたか
金 一九二九年生まれですから、日本の植民地時代です。実家は古くから続く両班(ヤンバン=良家の階級)で、私が生まれた家には、たくさんのお手伝いさんらがいました。特に、母はソウル出身の本当のお嬢さんで、何の苦労も知らない人でした。そんな家で、"おんば日傘"で育ったものですから、昔は家事も出来ずに困りました(笑い)。
-日本の植民地時代で苦労はしなかったのですか?
金 私自身は幼かったせいもあるんですが、苦労や嫌な思いをしたことはほとんどなかったんです。母がやりくり上手だったので、食べるものに困ったことはなかったし、近所に住んでいた日本人の方とも仲良くお付き合いしていただいた記憶があります。ただ、創始改名(金田)をさせられたり、学校で「日本語を使え」といわれるのが嫌で、たびたび休んだこともありました。
-大学は名門の梨花女子大ですね
金 ミッションスクールで、先輩、後輩の結束がすごく固い。金大中大統領の李姫鎬夫人も七年先輩で、「お姉さん」と慕っていました。ただ、大学で「体育」を専攻することになったのは母の画策。確かに幼いころからスポーツは何でも大好きでしたが、学問としてやる気はなかった。母は当時、女性が専攻することが少なかった体育をやらせ、将来は校長先生にならせたかったようです。
-当時、ご家族は
金 私は五人兄妹だったのですが、いずれも早世して、父も戦後間もなく亡くなりました。だから、ずっと母と二人暮らしの生活。母は心臓が悪かったので、日本へ行くときも残していくのが気がかりでした。東京教育大へ留学する際も「アメリカは遠いからだめだけど、日本は近いから、すぐに帰ってこられる」とやっと許してもらったぐらいでしたからね。
-その後、お母さんを日本に呼ばれたんですね
金 私は昭和五十年に筑波大の外国人教師になったんですが、筑波大の大学病院の心臓病の権威の先生が「私が治してあげるから」と日本で治療することを勧めてくださった。だから、母は筑波大病院の外国人入院患者第一号。健康保険がなくて困っていたら、筑波大の大学職員の方たちが、私が住んでいた東京まで順番に駆けつけて手続きをしてくださったんですよ。母は三年六ヶ月間、入院して亡くなりましたが、お葬式のときも言葉に言い尽せないほどお世話になり、母の件では、私はどれだけ泣いたか、わかりません。
聞き手
社会部次長 喜多由浩
これは メッセージ 1 (retribution さん)への返信です.
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