朝鮮恩人列伝−目賀田種太郎−前
投稿者: monju_jz 投稿日時: 2006/02/03 16:22 投稿番号: [188272 / 203793]
私が朝鮮に行ったのは今から約三十年の昔明治三十九年の五月であった。当時大蔵省に勤めていた私は韓国政府の傭聘に依って在官在職の儘朝鮮に派遣せられ、韓国政府から財政顧問府に補すとの辞令を受け所謂傭聘官吏として目賀田財政顧問の下で働いたのである。その後まもなく統監府書記官に任ぜられ次いで財政監査庁が設立されるや同庁監査官に任ぜられたのであるが、監査庁は四十年九月二十日限り閉鎖の運命に遭い、私も又法制局参事官に任ぜられて内地へ呼び戻される事となり朝鮮に居たのはわずか一年四ケ月の短日月に過ぎなかった
当時に於ける朝鮮は交通開けず産業又萎□沈滞して振わず、人民は長年に亘る秕政の余弊を受けて塗炭の苦にあり宮中府中の別更になく、財政、税制、幣制その他混沌として殆ど収拾すべからず、一言にして云えば凡てが殆んど御話にならぬ状態にあった。その朝鮮が僅か三十年足らずの短日月の間に今日の如き隆盛を見るに至った事は、歴代総督の施政その宜しきを得たる事勿論なるも、当初に方って目賀田財政顧問の達見に依る諸般の改革がその基礎をなした所に負う所が少くない
目賀田顧問の朝鮮に於ける治績は殆んど枚挙に遑ない。只自分が関係していた仕事の二三に就いて述ぶれば先ず第一に宮中府中の別を立て財政を分けられたる事である。目賀田顧問が財政の整理をされた事は整理と云うよりもむしろ財政経済の建設であった。殊に貨幣整理の如きは当時韓国の通貨たる白銅の濫造偽造が盛んに行われ、殆んど収拾できぬ状態で、その整理をなす事は極めて困難視されていたのであるが、目賀田顧問は一部人民の反対あったにも拘らず之が整理を断行された
又棄銭の整理も可なり困難な問題であったが之も整理を断行し、一方には第一銀行をして、兌換券発行の任に当たらしめ之を統一したのである。その後兌換券発行権は韓国銀行に移り日韓の併合なるに及び現在の朝鮮銀行に移ったものでこの貨幣整理に依って初めて朝鮮の財政経済の進歩が基礎づけられたわけで、実に千古不磨の一大事業と云わなければならぬ。若しこの幣制の整理失敗に帰していたとせんか朝鮮の開発は確に十年乃至は二十年遅れていたのではないかとすら考えられる
更らに農業を初め産業の開発を目的として明治三十九年六月京城に漢城農工銀行を創立された。次いで各道に農工銀行を設立され産業開発に尽されたが後日これの農工銀行が合併して今日の殖産銀行となったものである。今日殖産銀行が産業金融方面に於てあれ丈けの働きをなしているのも、実にこの目賀田顧問の農工銀行設立に基礎づけられている
農工銀行の設立に就いて面白い話がある、その資本金の大半は政府で出したのであるが、残余の分を一般朝鮮人がら募ったのである。然し当時朝鮮には株式の募集など云う事はなかったので仲々之に応募しない。已むを得ず殆んど半強制的に株を持たした。そこで、募集員が行くと我々の財産を掠奪に来たのだ不都合な奴であると云うので地方民の憤慨を買い襲撃されたとか、されようとしたとか云う話もあった
斯くていよいよ農工銀行が成立し業務を開始したのであるが開業第一期から僅か乍らも配当する事が出来た。そこで第一回の株主総会を開き私も監理官として臨席し配当のことを云ったら、一朝鮮人が私共は金は□上げたのであるから今更そんなものを貰う理由はない、お役人様方で適当に御分け下さいと云ってどうしても呑み込めない。そこで株の配当というものはそんなものじゃないと良く説明してやった所が驚きもし且非常に喜んだ事があったが、今から考えると実に滑稽な話である
又産業の発達を目的として金融組合の制度を創められた。これは確明治四十年の五月だったと記憶している。即ち最初僅か許りの加入金は出させるのであるが政府から一万円位の金を出してやる。而して現在の拓大(当時の東洋協会専門学校)卒業生を理事として運用の任に当らせたのであるが、金融の梗塞している地方農民に対し金を貸す丁度内地の信用組合見た様なもので、非常に便利であるから忽ち全道に行き渡り、今日も尚存続発展している。而して或意味に於ては内地以上に発達して居り朝鮮の産業開発にどれ丈け役立っているか判らない
当時に於ける朝鮮は交通開けず産業又萎□沈滞して振わず、人民は長年に亘る秕政の余弊を受けて塗炭の苦にあり宮中府中の別更になく、財政、税制、幣制その他混沌として殆ど収拾すべからず、一言にして云えば凡てが殆んど御話にならぬ状態にあった。その朝鮮が僅か三十年足らずの短日月の間に今日の如き隆盛を見るに至った事は、歴代総督の施政その宜しきを得たる事勿論なるも、当初に方って目賀田財政顧問の達見に依る諸般の改革がその基礎をなした所に負う所が少くない
目賀田顧問の朝鮮に於ける治績は殆んど枚挙に遑ない。只自分が関係していた仕事の二三に就いて述ぶれば先ず第一に宮中府中の別を立て財政を分けられたる事である。目賀田顧問が財政の整理をされた事は整理と云うよりもむしろ財政経済の建設であった。殊に貨幣整理の如きは当時韓国の通貨たる白銅の濫造偽造が盛んに行われ、殆んど収拾できぬ状態で、その整理をなす事は極めて困難視されていたのであるが、目賀田顧問は一部人民の反対あったにも拘らず之が整理を断行された
又棄銭の整理も可なり困難な問題であったが之も整理を断行し、一方には第一銀行をして、兌換券発行の任に当たらしめ之を統一したのである。その後兌換券発行権は韓国銀行に移り日韓の併合なるに及び現在の朝鮮銀行に移ったものでこの貨幣整理に依って初めて朝鮮の財政経済の進歩が基礎づけられたわけで、実に千古不磨の一大事業と云わなければならぬ。若しこの幣制の整理失敗に帰していたとせんか朝鮮の開発は確に十年乃至は二十年遅れていたのではないかとすら考えられる
更らに農業を初め産業の開発を目的として明治三十九年六月京城に漢城農工銀行を創立された。次いで各道に農工銀行を設立され産業開発に尽されたが後日これの農工銀行が合併して今日の殖産銀行となったものである。今日殖産銀行が産業金融方面に於てあれ丈けの働きをなしているのも、実にこの目賀田顧問の農工銀行設立に基礎づけられている
農工銀行の設立に就いて面白い話がある、その資本金の大半は政府で出したのであるが、残余の分を一般朝鮮人がら募ったのである。然し当時朝鮮には株式の募集など云う事はなかったので仲々之に応募しない。已むを得ず殆んど半強制的に株を持たした。そこで、募集員が行くと我々の財産を掠奪に来たのだ不都合な奴であると云うので地方民の憤慨を買い襲撃されたとか、されようとしたとか云う話もあった
斯くていよいよ農工銀行が成立し業務を開始したのであるが開業第一期から僅か乍らも配当する事が出来た。そこで第一回の株主総会を開き私も監理官として臨席し配当のことを云ったら、一朝鮮人が私共は金は□上げたのであるから今更そんなものを貰う理由はない、お役人様方で適当に御分け下さいと云ってどうしても呑み込めない。そこで株の配当というものはそんなものじゃないと良く説明してやった所が驚きもし且非常に喜んだ事があったが、今から考えると実に滑稽な話である
又産業の発達を目的として金融組合の制度を創められた。これは確明治四十年の五月だったと記憶している。即ち最初僅か許りの加入金は出させるのであるが政府から一万円位の金を出してやる。而して現在の拓大(当時の東洋協会専門学校)卒業生を理事として運用の任に当らせたのであるが、金融の梗塞している地方農民に対し金を貸す丁度内地の信用組合見た様なもので、非常に便利であるから忽ち全道に行き渡り、今日も尚存続発展している。而して或意味に於ては内地以上に発達して居り朝鮮の産業開発にどれ丈け役立っているか判らない
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