Re: 日本人のみなさん!!
投稿者: doronpa90 投稿日時: 2006/01/18 16:42 投稿番号: [187458 / 203793]
壊れすぎ・・・
<矯導官が証言した大田刑務所虐殺事件の顛末>
6・25勃発直後、軍・警が大田矯導所(旧大田刑務所)に収監されていた政治犯など収監者1千8百余名を大田市東区朗月洞で集団虐殺した事件を、直接目撃した当時の矯導官が50年ぶりに口を開いた。
前職矯導官の集りである矯正[?]同友会大田支会長を引き受けている金亨植(75)氏は、6日“当時大田刑務所に収容されていた収監者中、一般犯を除外した思想犯1千8百余名を朗月洞に引っ張っていき、憲兵と警察が銃殺した後、穴に埋めたことは事実だ”と証言した。
金氏は“当時、特別警備隊員として、思想犯の身上が記されている身分証を持って収監者を朗月洞に連れて行き、軍・警に引き継ぐ作業を直接おこなった”と述べ、“1日の間に大田刑務所にいる思想犯を全員連れて行き、銃殺したと記憶している”と語った。
金氏によれば、戦争直後の7月1日未明、金テギル所長は収監者を監房に残したまま職員とともに逃げ出したが、7時間後、警察に逮捕されて病監(病人を収容する所)に収容されたため、当時庶務課長の李スンイル氏が所長職務代理を担当し、刑務所は特別警備隊員20余名だけが守ることになった。
金氏は“10日ぐらい過ぎ、李スンイル氏が特別警備隊員を呼び集めた場で‘中央政府が南方に移動し、法務長官は刑務所を私に一任した。軍部と話がつき、政治犯を適当に処置しろという命令を受けた'と述べ、統制区域に保管されていた囚人たちの身分証を持ってこいと指示した”と語った。
李氏の指示により、一般犯に分類された収監者2千余名は、何の手続きもなく、身分証と名前だけ確認した後、釈放された。
その後、憲兵たちは塀が二重になっている監房で、収監されていた麗順事件関連の収監者など思想犯1千8百余名を、2名ずつ後ろ手に縛った後、通りすがりの民間人貨物車を呼びとめ荷物を扱うように載せ、カービン小銃を持った憲兵4名が一緒に乗り込んで朗月洞に連れていった。
金氏は“憲兵と警察が、300余メートルに達する2つの穴の前に、収監者を1列に並べた後、かわるがわる実弾2発を後頭部に射ち、正確な名前は知らないが、当時責任者だったシン中尉とチョン警視が拳銃で確認射殺をして、穴に埋める作業を一日中した”と証言した。
金氏は“私がチョン警視に身分証を渡すと、そばにいたチョン警視がトラックに乗っていた収監者1名の名前を呼び、収監者が降りると、その場で日本刀で斬り殺すのも見た"と話した。
金氏はまた“2名ずつ縛られた収監者をトラックで穴まで連れていく仕事は、防衛隊員2〜3名ずつで担当したが、収監者らがあがいて思うように引っ張っていけないと、シン中尉が防衛隊員に拳銃を突きつけ脅迫することもあり、しばしば正気を失った顔をしていた”と回想した。
金氏によれば大田刑務所にいた政治犯を全員銃殺した翌日から、数日間続けて、軍・警が殴打などでほとんど死にかけた人々を連行し、刑務所に監禁した後、裁判なしに彼らを処置したりもした。
金氏は当時の惨憺たる事件を回想して“思想犯に分類された収監者中には麗順事件関連者が多く、6・25以後捕えられた100余名など、正式裁判も受けなかった未決囚も相当数おり、無念に死んでいった人が多いことだろう”と述べ、“いまやこの事実が明るみになったからには、真相調査がなされなければならない”と語った。
連合ニュース 2000年01月07日18時54分
<矯導官が証言した大田刑務所虐殺事件の顛末>
6・25勃発直後、軍・警が大田矯導所(旧大田刑務所)に収監されていた政治犯など収監者1千8百余名を大田市東区朗月洞で集団虐殺した事件を、直接目撃した当時の矯導官が50年ぶりに口を開いた。
前職矯導官の集りである矯正[?]同友会大田支会長を引き受けている金亨植(75)氏は、6日“当時大田刑務所に収容されていた収監者中、一般犯を除外した思想犯1千8百余名を朗月洞に引っ張っていき、憲兵と警察が銃殺した後、穴に埋めたことは事実だ”と証言した。
金氏は“当時、特別警備隊員として、思想犯の身上が記されている身分証を持って収監者を朗月洞に連れて行き、軍・警に引き継ぐ作業を直接おこなった”と述べ、“1日の間に大田刑務所にいる思想犯を全員連れて行き、銃殺したと記憶している”と語った。
金氏によれば、戦争直後の7月1日未明、金テギル所長は収監者を監房に残したまま職員とともに逃げ出したが、7時間後、警察に逮捕されて病監(病人を収容する所)に収容されたため、当時庶務課長の李スンイル氏が所長職務代理を担当し、刑務所は特別警備隊員20余名だけが守ることになった。
金氏は“10日ぐらい過ぎ、李スンイル氏が特別警備隊員を呼び集めた場で‘中央政府が南方に移動し、法務長官は刑務所を私に一任した。軍部と話がつき、政治犯を適当に処置しろという命令を受けた'と述べ、統制区域に保管されていた囚人たちの身分証を持ってこいと指示した”と語った。
李氏の指示により、一般犯に分類された収監者2千余名は、何の手続きもなく、身分証と名前だけ確認した後、釈放された。
その後、憲兵たちは塀が二重になっている監房で、収監されていた麗順事件関連の収監者など思想犯1千8百余名を、2名ずつ後ろ手に縛った後、通りすがりの民間人貨物車を呼びとめ荷物を扱うように載せ、カービン小銃を持った憲兵4名が一緒に乗り込んで朗月洞に連れていった。
金氏は“憲兵と警察が、300余メートルに達する2つの穴の前に、収監者を1列に並べた後、かわるがわる実弾2発を後頭部に射ち、正確な名前は知らないが、当時責任者だったシン中尉とチョン警視が拳銃で確認射殺をして、穴に埋める作業を一日中した”と証言した。
金氏は“私がチョン警視に身分証を渡すと、そばにいたチョン警視がトラックに乗っていた収監者1名の名前を呼び、収監者が降りると、その場で日本刀で斬り殺すのも見た"と話した。
金氏はまた“2名ずつ縛られた収監者をトラックで穴まで連れていく仕事は、防衛隊員2〜3名ずつで担当したが、収監者らがあがいて思うように引っ張っていけないと、シン中尉が防衛隊員に拳銃を突きつけ脅迫することもあり、しばしば正気を失った顔をしていた”と回想した。
金氏によれば大田刑務所にいた政治犯を全員銃殺した翌日から、数日間続けて、軍・警が殴打などでほとんど死にかけた人々を連行し、刑務所に監禁した後、裁判なしに彼らを処置したりもした。
金氏は当時の惨憺たる事件を回想して“思想犯に分類された収監者中には麗順事件関連者が多く、6・25以後捕えられた100余名など、正式裁判も受けなかった未決囚も相当数おり、無念に死んでいった人が多いことだろう”と述べ、“いまやこの事実が明るみになったからには、真相調査がなされなければならない”と語った。
連合ニュース 2000年01月07日18時54分
これは メッセージ 187451 (apoon5 さん)への返信です.