孫 正義
投稿者: Kmechan 投稿日時: 2001/08/20 06:31 投稿番号: [16114 / 203793]
祖父は、故郷である韓国南東部の大邱(テグ)から18歳のときに日本の九州に渡り、筑豊炭鉱で炭鉱労働者をやっていた。のちに小作農として佐賀県鳥栖市に住みついた。
孫家は、高麗将軍の孫幹を先祖にもつ、韓国では代々武門の誉れ高い家柄であった。韓国には、孫家の者しか入ることのできない、土で盛ったいわゆる古墳のような大きな墓があるという。祖父はその19代目にあたる。祖父は、祖先から受け継いだ武門の家としての誇りをつねに抱いていた。金や目先の欲にとらわれることは汚らわしいことと忌み嫌っていた。
たとえば、自分が懸命に働いてつくった種籾を売るとき、それまでにかかった費用を換算して100円で売ればプラスマイナス・ゼロになるとする。ふつうであればそれに上乗せして200円、300円の値段をつける。それが商売というものである。しかし、正義の祖父はそれをしなかった。自分たちがギリギリで食える105円、110円でしか売らなかった。それ以上のことを望むのはむしろ人間の道に反していると考えていた。祖父がそのように考えていたため、孫家はいつも極貧だった。
祖母も韓国では格式高い家に育った。金山をもち、裕福だった。ところが、祖母の父、正義の曾祖父にあたる人が知り合いの保証人となったことで失敗し、金山の権利をすべて奪われてしまったと、正義は聞かされていた。
正義という名は、父親の三憲が「絶えず正義であれ」という思いをこめてつけた。
正義は、昼間は家にいない父母の代わりにそんな祖父母に見守られて育った。
養豚業を営む祖母はリヤカーを引いて、豚の餌にするために近所の残飯をもらってきた。祖母にくっついて歩いていた正義は、まだ残飯を積んでいないリヤカーに乗せてもらうことがあった。リヤカーには残飯の滓がが残っているのであろう、いつも足元がヌルヌルとして滑りそうだった。
祖母は、滑るまいとリヤカーのへりにつかまって必死に立っている正義に言った。
「いいか正義、いろいろと生きていけるのは人さまのおかげだ。とにかく人さまに感謝しなければいけないよ」
もともと格式高い家で育った祖母である。人を疑うことを知らなかったのか、あるいは天国から地獄へ突き落とされた人生を歩んできたなかで学んだ処世哲学か、繰り返し繰り返し正義にそう言い含めた。
しかし、正義は反発した。
「ばあちゃん、そんなに人さまのおかげと言うけど、人さまは食わせてはくれないじゃないか」
「いいや、そういうものじゃなかとよ」
幼い正義は、いつも釈然としなかった。
ところが正義は、のちに会社を興してはじめて祖母はなんと味わい深いことを言っていたのだろうと気づくことになる。
父親の三憲は、家の家計を助けるために義務教育を終えると魚の行商をはじめた。次男の正義が生まれるころには、喫茶店やレストラン、パチンコ屋など手広く事業をはじめていた。
祖父は、事業を大きくしようとするわが子三憲が気に入らなかった。三憲に、よく説教していた。「金を儲けようなんていうのは、汚らわしいことだ。孫家は、そんな家ではない」
三憲は、寡黙な祖父とは対照的に明るかった。いつも冗談ばかり言っていた。
物事の形にとらわれないタイプで、むしろ他人と同じでないということに価値観を見出した。その一面は正義に受け継がれている。
――本文より抜粋
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/topics/wadai/w_shishi/netsu.html
より
孫家は、高麗将軍の孫幹を先祖にもつ、韓国では代々武門の誉れ高い家柄であった。韓国には、孫家の者しか入ることのできない、土で盛ったいわゆる古墳のような大きな墓があるという。祖父はその19代目にあたる。祖父は、祖先から受け継いだ武門の家としての誇りをつねに抱いていた。金や目先の欲にとらわれることは汚らわしいことと忌み嫌っていた。
たとえば、自分が懸命に働いてつくった種籾を売るとき、それまでにかかった費用を換算して100円で売ればプラスマイナス・ゼロになるとする。ふつうであればそれに上乗せして200円、300円の値段をつける。それが商売というものである。しかし、正義の祖父はそれをしなかった。自分たちがギリギリで食える105円、110円でしか売らなかった。それ以上のことを望むのはむしろ人間の道に反していると考えていた。祖父がそのように考えていたため、孫家はいつも極貧だった。
祖母も韓国では格式高い家に育った。金山をもち、裕福だった。ところが、祖母の父、正義の曾祖父にあたる人が知り合いの保証人となったことで失敗し、金山の権利をすべて奪われてしまったと、正義は聞かされていた。
正義という名は、父親の三憲が「絶えず正義であれ」という思いをこめてつけた。
正義は、昼間は家にいない父母の代わりにそんな祖父母に見守られて育った。
養豚業を営む祖母はリヤカーを引いて、豚の餌にするために近所の残飯をもらってきた。祖母にくっついて歩いていた正義は、まだ残飯を積んでいないリヤカーに乗せてもらうことがあった。リヤカーには残飯の滓がが残っているのであろう、いつも足元がヌルヌルとして滑りそうだった。
祖母は、滑るまいとリヤカーのへりにつかまって必死に立っている正義に言った。
「いいか正義、いろいろと生きていけるのは人さまのおかげだ。とにかく人さまに感謝しなければいけないよ」
もともと格式高い家で育った祖母である。人を疑うことを知らなかったのか、あるいは天国から地獄へ突き落とされた人生を歩んできたなかで学んだ処世哲学か、繰り返し繰り返し正義にそう言い含めた。
しかし、正義は反発した。
「ばあちゃん、そんなに人さまのおかげと言うけど、人さまは食わせてはくれないじゃないか」
「いいや、そういうものじゃなかとよ」
幼い正義は、いつも釈然としなかった。
ところが正義は、のちに会社を興してはじめて祖母はなんと味わい深いことを言っていたのだろうと気づくことになる。
父親の三憲は、家の家計を助けるために義務教育を終えると魚の行商をはじめた。次男の正義が生まれるころには、喫茶店やレストラン、パチンコ屋など手広く事業をはじめていた。
祖父は、事業を大きくしようとするわが子三憲が気に入らなかった。三憲に、よく説教していた。「金を儲けようなんていうのは、汚らわしいことだ。孫家は、そんな家ではない」
三憲は、寡黙な祖父とは対照的に明るかった。いつも冗談ばかり言っていた。
物事の形にとらわれないタイプで、むしろ他人と同じでないということに価値観を見出した。その一面は正義に受け継がれている。
――本文より抜粋
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/topics/wadai/w_shishi/netsu.html
より
これは メッセージ 16069 (chousenunzaridayo2 さん)への返信です.
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