勲章受章する「済州海女万歳運動の主役」
投稿者: davidpkjp 投稿日時: 2003/08/14 00:39 投稿番号: [141470 / 203793]
http://japanese.chosun.com/site/data/img_dir/2003/08/12/200308120000641newsmaker_big.jpg
勲章受章する「済州海女万歳運動の主役」 金玉蓮さん (2003.08.12)
「セファ市場が開かれる7日正午から300人余の海女が、唯一の武器であるノミを手に、肩に風呂敷を結んだ姿でハド里からデモの行列を作り、セファ市場に到着した時…」(朝鮮日報1932年1月14日)
日本の植民地支配を受けていた1930年代のはじめ。日本植民地支配に抵抗した済州海女抗日運動の主役、金玉蓮(キム・オクリョン/93)さんが、当時から71年が過ぎた今月15日、「光復節(クァンボクチョル:日本の植民地支配から独立した日)独立有功者建国褒章」を受け取ることになった。
済州海女抗日運動は日本植民地時代、日本軍がアワビやワカメなど海女の採取した海産物を安値で奪取し、各種の税金を賦課、収奪を強化すると、1000人余の海女が1932年1月7日から1月24日まで、済州・ハド里一帯で抗日生存権闘争を繰り広げた事件だ。
海女たちは18日間、数回に渡って万歳デモを行い、首謀者の検挙に抗議して済州・旧左(クザ)面・セファ駐在所を襲撃した。窮地に追い込まれた日本は、当時、済州道警察の兵力だけでは役不足と判断、木浦(モッポ)警察署から応援の警官を要請した。
金さんは当時22歳。“幼い”海女たちの集まりである海女会少女会長として、抗日運動を主導した。
「韓国民族が力なく日本から圧迫され、海女が搾取されることに耐ヲられなかっただけ」
金さんは今でも当時のことを鮮やかに思い出す。当時、金さんと1000人余の海女は「大韓民国独立万歳、海女独立万歳」と叫び、セファ市場に集まった群衆と共に市場一帯を闊歩した。
そして金さんは日帝に検挙され、6カ月間投獄された。取り調べでは鞭で打たれ、後ろ手に縛られて木の棒の上にひざまずかされたまま、数回押さえつけられた。「今でも当時のことを思い出すと怒りがこみ上げる」という。
監獄で金さんは配膳、洗濯などを担当した。日本人看守の目を逃れ、監房から監房へと秘密のメモを受け渡す危険な役目をした。「監獄でも祖国独立を議論し、同志を守ろうと必死になる様子を見て、いつかは我が国が独立するだろうと固く信じていた」
金さんは当時、日帝の目を逃れてハングルと韓民族の歴史を教えていた夜学教師たちや、当時、済州海女抗日運動にかかわって投獄された社会主義系列の革友同盟員100人余のことも覚えていた。
金さんは開放直後、済州を離れて釜山に引っ越した。日本に出稼ぎに行った夫との連絡が途絶え、3人の子供を育てるために釜山の国際市場で反物屋を開いた。今ではひ孫、外孫合わせて20人近くになる大家族をつくりあげた。
金さんの三女、韓仁淑(ハン・インスク/梨花(イファ)女子大学行政学科)教授は「50年代、釜山に申翼熙(シン・イクヒ)先生が選挙の遊説に来ると、店を閉めて駆けつけるほどに社会意識が高く、正義感の強い人だった。苦労してきた母が国家有功者として認められ、娘として誇らしく嬉しい」と述べた。
金さんは「人が認めてくれようと、認めてくれまいと、やるべきことをやっただけ。先に亡くなった同志たちも喜んでくれるだろう」と目を潤ませた。
当時、20代前半から半ばの若さで金さんとともに抗日運動の中心人物として活動したプ・ドクヒャンさん、プ・チュンファさんらはすでに他界した。このうちプ・チュンファさんは金さんとともに建国褒章を受章することになり、死後ようやく功績が認められることになった。
勲章受章する「済州海女万歳運動の主役」 金玉蓮さん (2003.08.12)
「セファ市場が開かれる7日正午から300人余の海女が、唯一の武器であるノミを手に、肩に風呂敷を結んだ姿でハド里からデモの行列を作り、セファ市場に到着した時…」(朝鮮日報1932年1月14日)
日本の植民地支配を受けていた1930年代のはじめ。日本植民地支配に抵抗した済州海女抗日運動の主役、金玉蓮(キム・オクリョン/93)さんが、当時から71年が過ぎた今月15日、「光復節(クァンボクチョル:日本の植民地支配から独立した日)独立有功者建国褒章」を受け取ることになった。
済州海女抗日運動は日本植民地時代、日本軍がアワビやワカメなど海女の採取した海産物を安値で奪取し、各種の税金を賦課、収奪を強化すると、1000人余の海女が1932年1月7日から1月24日まで、済州・ハド里一帯で抗日生存権闘争を繰り広げた事件だ。
海女たちは18日間、数回に渡って万歳デモを行い、首謀者の検挙に抗議して済州・旧左(クザ)面・セファ駐在所を襲撃した。窮地に追い込まれた日本は、当時、済州道警察の兵力だけでは役不足と判断、木浦(モッポ)警察署から応援の警官を要請した。
金さんは当時22歳。“幼い”海女たちの集まりである海女会少女会長として、抗日運動を主導した。
「韓国民族が力なく日本から圧迫され、海女が搾取されることに耐ヲられなかっただけ」
金さんは今でも当時のことを鮮やかに思い出す。当時、金さんと1000人余の海女は「大韓民国独立万歳、海女独立万歳」と叫び、セファ市場に集まった群衆と共に市場一帯を闊歩した。
そして金さんは日帝に検挙され、6カ月間投獄された。取り調べでは鞭で打たれ、後ろ手に縛られて木の棒の上にひざまずかされたまま、数回押さえつけられた。「今でも当時のことを思い出すと怒りがこみ上げる」という。
監獄で金さんは配膳、洗濯などを担当した。日本人看守の目を逃れ、監房から監房へと秘密のメモを受け渡す危険な役目をした。「監獄でも祖国独立を議論し、同志を守ろうと必死になる様子を見て、いつかは我が国が独立するだろうと固く信じていた」
金さんは当時、日帝の目を逃れてハングルと韓民族の歴史を教えていた夜学教師たちや、当時、済州海女抗日運動にかかわって投獄された社会主義系列の革友同盟員100人余のことも覚えていた。
金さんは開放直後、済州を離れて釜山に引っ越した。日本に出稼ぎに行った夫との連絡が途絶え、3人の子供を育てるために釜山の国際市場で反物屋を開いた。今ではひ孫、外孫合わせて20人近くになる大家族をつくりあげた。
金さんの三女、韓仁淑(ハン・インスク/梨花(イファ)女子大学行政学科)教授は「50年代、釜山に申翼熙(シン・イクヒ)先生が選挙の遊説に来ると、店を閉めて駆けつけるほどに社会意識が高く、正義感の強い人だった。苦労してきた母が国家有功者として認められ、娘として誇らしく嬉しい」と述べた。
金さんは「人が認めてくれようと、認めてくれまいと、やるべきことをやっただけ。先に亡くなった同志たちも喜んでくれるだろう」と目を潤ませた。
当時、20代前半から半ばの若さで金さんとともに抗日運動の中心人物として活動したプ・ドクヒャンさん、プ・チュンファさんらはすでに他界した。このうちプ・チュンファさんは金さんとともに建国褒章を受章することになり、死後ようやく功績が認められることになった。
これは メッセージ 1 (retribution さん)への返信です.