でも、在日は日本人扱い
投稿者: kamisanga3 投稿日時: 2003/07/22 19:32 投稿番号: [139795 / 203793]
悩む3世 祖国はアウエーだった
統一の願い胸に
「チョッパリ」。相手選手にそう言われ、在日大韓蹴球(しゅうきゅう)団の韓国人三世、任泰亨=イム・テヒョン=(22)は「なめんじゃねえ」と思った。昨年三月、韓国・光明市。試合終了まで、まだ時間はあった。
韓国語で「ブタの足」を意味する「チョッパリ」。転じて、ゲタを履く習慣のあった日本人への蔑称(べっしょう)とされる。任は、日本人扱いされたのだ。
前年に発足した蹴球団は韓国の大会に出たが、二連敗していた。「この最終戦だけは勝ちたい」。任は燃えていた。
だが意外な敵がいた。「明らかに相手寄りの韓国審判」だ。身体に触っていないのに、相手選手が倒れたらすぐ笛を吹く。逆に味方が倒れても笛は鳴らない。不可解な判定でペナルティーキックを決められ、本当は残り時間が五分以上あったはずなのに試合終了。負けた。
チームメートの池承臣=チ・スンシン=(22)は「祖国なのに、アウエーゲームだった」と話す。試合後、池は「審判が『在日に勝たせなくてよかった』と言っていた」と聞く。真偽は不明だが、敗北より「在日だから不当な扱いを受けた」ことが悔しかった。「日本に逃げたやつらの子孫、と思われているのか」
任は東京朝鮮高級学校時代、日本の強豪高校と戦った。相手応援団が「朝鮮高校、ぶっつぶせ」と大合唱した。「日本にいたら韓国人。韓国に行けば日本人。おれたちは一体、何なのか」。自分は日本人ではない。だが韓国人とも少し違う。はざまで任は悩む。
アイデンティティー、だけではない。南北分断の現実も、在日の若者たちに難題を突き付ける。
在日三世の鄭容臺=チョン・ヨンデ=(24)は二〇〇〇年秋、朝鮮籍のまま韓国に遠征し、在日チームで大会に出場。韓国プロから誘われた。入団の条件は、韓国籍に変えること、だった。
悩んだ。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)代表に入ることが、子どものころから夢だった。韓国籍に変えれば、夢は夢のまま終わる。サッカーの実力とは別の理由で。
「選手として前に進む。もう一つの夢、Jリーグを目指し、韓国で実績を積もう」。苦渋の決断。国籍を変えた。
北か、南か。その悩みを乗り越え、かつて一瞬だけ、ピッチで輝いた在日の男たちがいた。
一九五七(昭和三十二)年。国籍を問わず全国の在日選手が集められ、東京で合宿した。実力だけでレギュラーを決め、コーチや役員も南北で分担して出し合った。「在日オールコリアン」だ。
「選手間には『北か南か』なんて意識は、なかった。政治にできないこと、本国で不可能なことを、やってのけた。サッカーで、在日が」。メンバーだった金明植=キム・ミョンシク=(63)は話す。「誇りに思う」
だがチームは二試合で消えた。金は「サッカーで統一の機運を盛り上げても、政治はついてこなかった」。南北対立は、むしろ激化していった。
韓国でプレーした鄭は日本に戻った。先月、名古屋グランパスエイトと契約。二日のJリーグ開幕戦で、ベンチ入りを果たした。ワールドカップ(W杯)中断が明け、Jリーグが再開する七月にはレギュラーを取りたい。
その先に、〇六年W杯が見える。鄭の夢は韓国代表でも、北朝鮮代表でもない。「南北朝鮮の統一代表」に入ることだ。
一昨年のシドニー五輪。南北選手団の合同行進に鄭は感動した。国の統一が遠くても、サッカーは政治を超えるかもしれない。四年後、統一チームでW杯に出てほしい。北でも南でも在日でも、本当にサッカーがうまい者だけを集めたチームこそ、朝鮮半島の代表だ。
それが、北朝鮮代表の夢を捨てた末に、鄭がたどり着いた結論だった。
鄭は今日もボールを追う。そのピッチに立つために。(敬称略)
=中日新聞2002年3月3日付紙面
http://chuspo.chunichi.co.jp/wc2002/tokushu/nikkan/nikkan0303.html
統一の願い胸に
「チョッパリ」。相手選手にそう言われ、在日大韓蹴球(しゅうきゅう)団の韓国人三世、任泰亨=イム・テヒョン=(22)は「なめんじゃねえ」と思った。昨年三月、韓国・光明市。試合終了まで、まだ時間はあった。
韓国語で「ブタの足」を意味する「チョッパリ」。転じて、ゲタを履く習慣のあった日本人への蔑称(べっしょう)とされる。任は、日本人扱いされたのだ。
前年に発足した蹴球団は韓国の大会に出たが、二連敗していた。「この最終戦だけは勝ちたい」。任は燃えていた。
だが意外な敵がいた。「明らかに相手寄りの韓国審判」だ。身体に触っていないのに、相手選手が倒れたらすぐ笛を吹く。逆に味方が倒れても笛は鳴らない。不可解な判定でペナルティーキックを決められ、本当は残り時間が五分以上あったはずなのに試合終了。負けた。
チームメートの池承臣=チ・スンシン=(22)は「祖国なのに、アウエーゲームだった」と話す。試合後、池は「審判が『在日に勝たせなくてよかった』と言っていた」と聞く。真偽は不明だが、敗北より「在日だから不当な扱いを受けた」ことが悔しかった。「日本に逃げたやつらの子孫、と思われているのか」
任は東京朝鮮高級学校時代、日本の強豪高校と戦った。相手応援団が「朝鮮高校、ぶっつぶせ」と大合唱した。「日本にいたら韓国人。韓国に行けば日本人。おれたちは一体、何なのか」。自分は日本人ではない。だが韓国人とも少し違う。はざまで任は悩む。
アイデンティティー、だけではない。南北分断の現実も、在日の若者たちに難題を突き付ける。
在日三世の鄭容臺=チョン・ヨンデ=(24)は二〇〇〇年秋、朝鮮籍のまま韓国に遠征し、在日チームで大会に出場。韓国プロから誘われた。入団の条件は、韓国籍に変えること、だった。
悩んだ。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)代表に入ることが、子どものころから夢だった。韓国籍に変えれば、夢は夢のまま終わる。サッカーの実力とは別の理由で。
「選手として前に進む。もう一つの夢、Jリーグを目指し、韓国で実績を積もう」。苦渋の決断。国籍を変えた。
北か、南か。その悩みを乗り越え、かつて一瞬だけ、ピッチで輝いた在日の男たちがいた。
一九五七(昭和三十二)年。国籍を問わず全国の在日選手が集められ、東京で合宿した。実力だけでレギュラーを決め、コーチや役員も南北で分担して出し合った。「在日オールコリアン」だ。
「選手間には『北か南か』なんて意識は、なかった。政治にできないこと、本国で不可能なことを、やってのけた。サッカーで、在日が」。メンバーだった金明植=キム・ミョンシク=(63)は話す。「誇りに思う」
だがチームは二試合で消えた。金は「サッカーで統一の機運を盛り上げても、政治はついてこなかった」。南北対立は、むしろ激化していった。
韓国でプレーした鄭は日本に戻った。先月、名古屋グランパスエイトと契約。二日のJリーグ開幕戦で、ベンチ入りを果たした。ワールドカップ(W杯)中断が明け、Jリーグが再開する七月にはレギュラーを取りたい。
その先に、〇六年W杯が見える。鄭の夢は韓国代表でも、北朝鮮代表でもない。「南北朝鮮の統一代表」に入ることだ。
一昨年のシドニー五輪。南北選手団の合同行進に鄭は感動した。国の統一が遠くても、サッカーは政治を超えるかもしれない。四年後、統一チームでW杯に出てほしい。北でも南でも在日でも、本当にサッカーがうまい者だけを集めたチームこそ、朝鮮半島の代表だ。
それが、北朝鮮代表の夢を捨てた末に、鄭がたどり着いた結論だった。
鄭は今日もボールを追う。そのピッチに立つために。(敬称略)
=中日新聞2002年3月3日付紙面
http://chuspo.chunichi.co.jp/wc2002/tokushu/nikkan/nikkan0303.html
これは メッセージ 139794 (tydkemvo さん)への返信です.