読んでください、「私の韓国」
投稿者: kdm0709 投稿日時: 2003/03/22 04:15 投稿番号: [125539 / 203793]
私は既に320回くらい日韓線を往復しています。
最初は25歳頃でした。仕事の関係から、ある時単身で
2週間機械の据付指導に、韓国南部の片田舎・・いや、ズクの田舎に入りました。
ホテルには日本語を話す人が誰もいませんでした。
朝は8時半から夜9時までの現場作業に従事しました。
私が「アジュンマ」と接触したのがこの時期でした。
当時は工場の残業は当たり前のことで、夕方4時になると、
アジュンマが大きな洗濯桶を頭に乗せてやってくるのでした。
誰とも無く休憩に入るのでした。一番最後に私もその輪の中に参加しました。
洗濯桶の中には大量に作ったインスタントラーメン(もちろん伸びきったもの)と白菜のキムチがありました。
そして驚いたのはジンロ焼酎もありました。
私はたった一人の外国人、しかも指導員ということからか、優遇してくれました。
日に焼けた顔なのか地黒なのかわからないけど、
アジュンマが私に何か言いながら、いつも一番最初にラーメンをよそってくれました。
隣に座っているアジョシ(従業員の男性)が私に焼酎を注いでくれます。皆が飲んでいるので私も付き合いました。
20分位のうちに洗濯桶に入っていたものはすべて無くなり、残業の開始時間となるのでした。
アジュンマは私のことが珍しいのか、分からない韓国語と片言の日本語単語を混ぜて話し掛けてきました。
憶えているのは一度だけ、私が不味そうな顔をして焼酎を飲むのでビールを一本くれたことです。
それはまったく冷えてなく、でも美味しそうに飲み干しました。
そんな私の毎日の夕食は、ホテル近くの「食堂」でした。
アジュンマが一人でやってる小さな食堂でした。
そこでの私のお気に入りメニューは「ヘムルタン」と「自家製のマッコリ」でした。
他に客は見えないし、いつもそのアジュンマと話しながら?憩いの時間を過ごしたものでした。
滞在期限の2週間が過ぎる頃、私は「残業アジュンマ」と「食堂アジュンマ」に明日日本に帰る旨を伝えました。
しわがれた硬い手を私に差し伸べて、握手をしました。
食堂アジュンマは、早めに店を閉め、「ハンジャンハヤデヨ?」と言ってくれ、
一緒に酒を飲みに行きました。話しが通じるわけでもないのに、
なぜか目と目があうとお互いに笑顔をかわしたものでした。
あくる朝、食堂アジュンマの店を通り、バス乗り場に向かう途中、
アジュンマが「トマンナヨ」といってくれました。
どんな意味なのか、日本語だったのだろうか・・・と考えながらソウルに戻りました。
「また会おうね」「またネ」という意味だったことをソウルで知りました。
「私の韓国」はこの2週間の片田舎がそうでした。
人とのふれあい・・・はこんなところから始まるのではないでしょうか。
だから私は韓国で、多くの方と話したいのです。酒も一緒に飲みたいのです。
皆さんもチャレンジしてみてください。できれば若いうちから・・・。
最初は25歳頃でした。仕事の関係から、ある時単身で
2週間機械の据付指導に、韓国南部の片田舎・・いや、ズクの田舎に入りました。
ホテルには日本語を話す人が誰もいませんでした。
朝は8時半から夜9時までの現場作業に従事しました。
私が「アジュンマ」と接触したのがこの時期でした。
当時は工場の残業は当たり前のことで、夕方4時になると、
アジュンマが大きな洗濯桶を頭に乗せてやってくるのでした。
誰とも無く休憩に入るのでした。一番最後に私もその輪の中に参加しました。
洗濯桶の中には大量に作ったインスタントラーメン(もちろん伸びきったもの)と白菜のキムチがありました。
そして驚いたのはジンロ焼酎もありました。
私はたった一人の外国人、しかも指導員ということからか、優遇してくれました。
日に焼けた顔なのか地黒なのかわからないけど、
アジュンマが私に何か言いながら、いつも一番最初にラーメンをよそってくれました。
隣に座っているアジョシ(従業員の男性)が私に焼酎を注いでくれます。皆が飲んでいるので私も付き合いました。
20分位のうちに洗濯桶に入っていたものはすべて無くなり、残業の開始時間となるのでした。
アジュンマは私のことが珍しいのか、分からない韓国語と片言の日本語単語を混ぜて話し掛けてきました。
憶えているのは一度だけ、私が不味そうな顔をして焼酎を飲むのでビールを一本くれたことです。
それはまったく冷えてなく、でも美味しそうに飲み干しました。
そんな私の毎日の夕食は、ホテル近くの「食堂」でした。
アジュンマが一人でやってる小さな食堂でした。
そこでの私のお気に入りメニューは「ヘムルタン」と「自家製のマッコリ」でした。
他に客は見えないし、いつもそのアジュンマと話しながら?憩いの時間を過ごしたものでした。
滞在期限の2週間が過ぎる頃、私は「残業アジュンマ」と「食堂アジュンマ」に明日日本に帰る旨を伝えました。
しわがれた硬い手を私に差し伸べて、握手をしました。
食堂アジュンマは、早めに店を閉め、「ハンジャンハヤデヨ?」と言ってくれ、
一緒に酒を飲みに行きました。話しが通じるわけでもないのに、
なぜか目と目があうとお互いに笑顔をかわしたものでした。
あくる朝、食堂アジュンマの店を通り、バス乗り場に向かう途中、
アジュンマが「トマンナヨ」といってくれました。
どんな意味なのか、日本語だったのだろうか・・・と考えながらソウルに戻りました。
「また会おうね」「またネ」という意味だったことをソウルで知りました。
「私の韓国」はこの2週間の片田舎がそうでした。
人とのふれあい・・・はこんなところから始まるのではないでしょうか。
だから私は韓国で、多くの方と話したいのです。酒も一緒に飲みたいのです。
皆さんもチャレンジしてみてください。できれば若いうちから・・・。
これは メッセージ 1 (retribution さん)への返信です.