なぜ韓国人は、嫌われるのか?

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>赤城殿へ

投稿者: shinkuuboakagi555 投稿日時: 2003/01/22 20:00 投稿番号: [113600 / 203793]
>戦時中、戦後10年間の日本は世界の嫌われ者だったんだよ。このようなことがあれば日本は孤立します。

何も知らんやつがえらそうにしゃべるな。

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悪化する一方の戦局を打開するため、日本軍とインド国民軍が、最も悲劇的な戦いとして名高いインパール作戦に勝負を賭けたのは、その翌年、1944年(昭和19)3月のことでした。この戦いでは、多くの将兵が命を落とし、生き地獄だとさえ言われました。そのため、現在の歴史家の多くは、このインパール作戦を、おろかな、無用の戦いであったと言います。

しかし、本当にそうなのでしょうか?

この戦いで敵方として戦った、イギリス軍東南アジア総司令部司令官マウントバッテン大将は回想記のなかで、こう記しています。「かつて不敗を誇った日本軍も半年の死闘に衣服や靴もボロボロとなり、ささえるものは不屈の精神力だけであった。日本軍はインパールにおいて、ついに敗れたが、そこには何かが残った。それは歴史学の権威トインビーがいみじくも喝破したとおりである。すなわち『もし、日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権をわがもの顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」(ルイス・マウントバッテン『ビルマ戦線の大逆襲』)

「何かが残った…」その「何か」については、インドの民衆たちがいちばんよく知っています。

インパール手前15キロのロトパチンという村では、村民たちが自主的に作った日本兵の慰霊塔があり、毎年、日本兵の供養が続けられています。ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えて行こうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼と供養のため、慰霊祈念碑を建てて、独立インドのシンボルとしたのです。」と語っています。

また、激戦地となったコヒマに住むナガ族は、そこに咲く可憐な花に「日本兵の花(ジャパニーズ・ソルジャーズ・フラワー)」という名を付けています。この花は非常に生命力が強くて、少々のことでは枯れることがなく、しかも群生して仲良くいっせいに咲き始める野草です。このような花の性質が、死闘のなか、弾薬も尽き、ボロボロになりながらも、みんなで力を合わせて、敵に立ち向かっていく、そんな日本兵のすがたに重ね合わせられ、名付けられたのだということです。コヒマの人々は、花に名を刻み、日本兵が倒したイギリス軍の戦車を今も勇気のシンボルとして大事に保存しています。

インパール作戦は決して無駄ではありませんでした。確かに、あまりに多くの犠牲を払いはしましたが、「何か」、つまりインドの独立という大きな歴史を残したのです。このように遠く離れた地で、今でも日本人に感謝してくれている人々がいるということは、祖先がわたしたちに残してくれた大きな財産だといえるでしょう。
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