スマラン事件
投稿者: shinkuuboakagi555 投稿日時: 2002/01/05 18:03 投稿番号: [410 / 3669]
まず最初に、Kmechanのあげた犠牲者の数のうち、ベトナムの200万人はベトナム側主張の餓死者の数ですね。と言うことは、餓死者はいたけど、ベトナム側の戦死者はいないことをベトナム自身が認めたことになりますね。(この数と日本の責任についてはイルクジ君に散々反論してきたけど)。
あと、インドネシア側主張で400万人の死亡、どこからこんな数が出るんだろうね。根本的には米軍との戦闘が無かったインドネシアで400万人殺害?どうなってるの。(マッカーサーはあまり日本軍にかまわずに
フィリッピンに至りたかった。インドネシアでは、ニューギニアを除けば、ビアク島、モロタイ島 -- 台湾の中村さんの話が有名ーーくらいしか戦闘はなかったのに。バベル島については別途。
スマラン事件の背景。
日本軍降伏後の二日後の8月17日にインドネシアが独立宣言。日本は降伏したが、オランダが再度やってくるまでの間をねらったもの。少数のオランダ釈放捕虜はいたが、インドネシア全部の治安、統治ができなかった連合軍側は、まだ組織の残っている日本軍に治安維持を命じた。
ところが、インドネシア人はもはや独立したと思っていた。が、連合軍はそうではなかった。オランダの植民地に「復帰した」とおもっていた。独立運動や騒動がが起きると、日本軍を使って鎮圧させた。映画「ムルデカ」のなかで、主人公が「日本軍が独立軍と戦っているのか?」と言うせりふがそう。
自分たちの仲間と思っていた日本軍が独立軍と戦っていると言うことを知った一部インドネシア人たちが各地で民間日本人狩を行った。中部ジャワの都市スマランでは約150人の日本人がつかまりブル刑務所の各房に押し込められた。
インドネシア人たちは銃や竹槍やなたなどで日本人を殺し始めた。これを知った付近の駐留日本部隊が救出に駆けつけたが、すでに150人全員がころされていた。
その日本軍守備隊はある房の壁に書かれた血文字に息を飲んだ。そこにはこう書いてあった。
「我ら日本人36人、インドネシア独立のためよろこんで死ぬ。インドネシア独立万歳 Bahagia Merdeka Indonesai」
これを書いたのは現地森永乳業社員阿部領二氏(鶴岡市出身)。36人の名前も血で書いてあったと言う。このブル刑務所で助かった日本人は一人もいない。
菊地氏は「ムルデカに喝采を」の中でこうかいている。
「インドネシア人に銃で撃たれながら、なおも愛するインドネシアの独立を願う、この日本人の無償の心情が分からないようでその独立もむなしいものとなろう」
スマランでのインドネシア人との衝突とは、この日本軍守備隊は救出に向かうときに暴徒との間起こったこと。これを虐殺とはねー。
このような事件はやはり日本軍の武器引渡しをめぐって各地でおきている。日本軍は本当は武器をインドネシア人側にひきわたしたかった。が、連合軍が禁止した。それで、強引に武器を奪おうとするインドネシア人との衝突があったが、日本軍は最後の最後までインドネシア人を撃たなかったらしい。竹槍をもって迫ってるインドネシア人たちに対し、隊長が「インドネシア人を撃ってはならん」と命じたので、そのまま竹やりでさされて殺された日本兵は多数に上ると言う。「今まで隠忍自重してきた連隊本部の沢村少将も決意し、郡徒の制圧に乗り出した・・・」(こだわりのインドネシア30年・加藤裕)
中部ジャワでは、日本軍の司令官が武器は自分たちで破棄すると言って、川原にすてたが、これを阿吽の呼吸で待っていた独立軍が持ちさった。こうして独立軍に渡った小銃は数万丁にのぼる。この武器と元日本兵の独立軍への参加が無ければ、インドネシアは絶対オランダに勝てなかった。当初はイギリス軍もオランダ軍の味方をしていた。スラバヤにオランダ・イギリス軍が上陸してきたとき現地の青年たちは竹やりでたたかった。
Kmechanのいうに日本軍による犠牲者とは前述のような衝突によるもの。これを虐殺というKmechanは精神異常か、もしくは無知なだけ(ある種の本を正しいと信じ込んでいるだけ)
シンガポール。マレーについては、その数がいかにでたらめであるかは、「日中戦争いまだ終わらず」(中島みち・文芸春秋)にくわしい。
あと、インドネシア側主張で400万人の死亡、どこからこんな数が出るんだろうね。根本的には米軍との戦闘が無かったインドネシアで400万人殺害?どうなってるの。(マッカーサーはあまり日本軍にかまわずに
フィリッピンに至りたかった。インドネシアでは、ニューギニアを除けば、ビアク島、モロタイ島 -- 台湾の中村さんの話が有名ーーくらいしか戦闘はなかったのに。バベル島については別途。
スマラン事件の背景。
日本軍降伏後の二日後の8月17日にインドネシアが独立宣言。日本は降伏したが、オランダが再度やってくるまでの間をねらったもの。少数のオランダ釈放捕虜はいたが、インドネシア全部の治安、統治ができなかった連合軍側は、まだ組織の残っている日本軍に治安維持を命じた。
ところが、インドネシア人はもはや独立したと思っていた。が、連合軍はそうではなかった。オランダの植民地に「復帰した」とおもっていた。独立運動や騒動がが起きると、日本軍を使って鎮圧させた。映画「ムルデカ」のなかで、主人公が「日本軍が独立軍と戦っているのか?」と言うせりふがそう。
自分たちの仲間と思っていた日本軍が独立軍と戦っていると言うことを知った一部インドネシア人たちが各地で民間日本人狩を行った。中部ジャワの都市スマランでは約150人の日本人がつかまりブル刑務所の各房に押し込められた。
インドネシア人たちは銃や竹槍やなたなどで日本人を殺し始めた。これを知った付近の駐留日本部隊が救出に駆けつけたが、すでに150人全員がころされていた。
その日本軍守備隊はある房の壁に書かれた血文字に息を飲んだ。そこにはこう書いてあった。
「我ら日本人36人、インドネシア独立のためよろこんで死ぬ。インドネシア独立万歳 Bahagia Merdeka Indonesai」
これを書いたのは現地森永乳業社員阿部領二氏(鶴岡市出身)。36人の名前も血で書いてあったと言う。このブル刑務所で助かった日本人は一人もいない。
菊地氏は「ムルデカに喝采を」の中でこうかいている。
「インドネシア人に銃で撃たれながら、なおも愛するインドネシアの独立を願う、この日本人の無償の心情が分からないようでその独立もむなしいものとなろう」
スマランでのインドネシア人との衝突とは、この日本軍守備隊は救出に向かうときに暴徒との間起こったこと。これを虐殺とはねー。
このような事件はやはり日本軍の武器引渡しをめぐって各地でおきている。日本軍は本当は武器をインドネシア人側にひきわたしたかった。が、連合軍が禁止した。それで、強引に武器を奪おうとするインドネシア人との衝突があったが、日本軍は最後の最後までインドネシア人を撃たなかったらしい。竹槍をもって迫ってるインドネシア人たちに対し、隊長が「インドネシア人を撃ってはならん」と命じたので、そのまま竹やりでさされて殺された日本兵は多数に上ると言う。「今まで隠忍自重してきた連隊本部の沢村少将も決意し、郡徒の制圧に乗り出した・・・」(こだわりのインドネシア30年・加藤裕)
中部ジャワでは、日本軍の司令官が武器は自分たちで破棄すると言って、川原にすてたが、これを阿吽の呼吸で待っていた独立軍が持ちさった。こうして独立軍に渡った小銃は数万丁にのぼる。この武器と元日本兵の独立軍への参加が無ければ、インドネシアは絶対オランダに勝てなかった。当初はイギリス軍もオランダ軍の味方をしていた。スラバヤにオランダ・イギリス軍が上陸してきたとき現地の青年たちは竹やりでたたかった。
Kmechanのいうに日本軍による犠牲者とは前述のような衝突によるもの。これを虐殺というKmechanは精神異常か、もしくは無知なだけ(ある種の本を正しいと信じ込んでいるだけ)
シンガポール。マレーについては、その数がいかにでたらめであるかは、「日中戦争いまだ終わらず」(中島みち・文芸春秋)にくわしい。
これは メッセージ 409 (yusura_sdhk さん)への返信です.
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