羅英均『日帝時代,わが家は』
投稿者: bosintang 投稿日時: 2004/03/08 00:57 投稿番号: [1908 / 3669]
(2003,みすず書房)
すでに誰かが紹介してくれてたかもしれませんが。
著者は,1929年生まれ,梨花女子大を卒業した英文学者。
革命家を志した父,封建的な社会の中で奔放に生きた芸術家のおばのヘソク(晶月)を中心に,激動の時代の家族の歴史を描く。
父は社会主義思想に心酔し,三一運動を主導するも,失敗するや,国産品愛用運動などを展開。日帝の監視を逃れて満州へわたり,農地開墾,工場設立,小資本家に変身。戦争末期には,朝鮮に戻り,消極的に日本に協力しながら朝鮮人の権利拡張を図る。
戦後は,韓国民主党に肩入れしたが,国よりも利に走る世相に絶望して政治活動から引退。朝鮮戦争ではソウルに留まり,保衛部に捕らえられたりもしたが,からくも生き長らえる。最後はカトリックの洗礼を受け,59年他界。
激動の時代を,客観的に描写しています。
「父はまめで,仕事好きな人だった。奉天に落ち着くと,東拓会社から高額の融資を受けた。そしてその金で株式会社民青公社をつくり,遊休地を数万坪買い入れた。広い満州の平原には,遊んでいる土地がいくらでもあった。
父は嶺南と平安道の農家二十世帯余りをここに移住させ,土地を開墾させることにした。
しかし,父も同僚もそうした仕事は初めてだった。やってみようという意図はよかったが,満州の気候風土に不慣れで,農業などやってみたこともない人ばかりだった。当然,実際の状況は意図したとおりにはいかなかった。農業はそう簡単に短時日で習得できるものではなく,満州の土地はやせ地で,気候も過酷だった。
経験のない彼らは管理人をおいて,農民を定着させることから農地の分配,実際に小作農を頼む仕事,農場を経営する仕事など一切を任せるしかなかった。
管理人は朝鮮人だったが,東拓からもらった金は誰のものでもない金だと思っていたのか,ひどい仕事ぶりにもかかわらず,自分の実入りを懐に入れることだけに熱中していた。会社の側から小作人に耕作を頼むと,その小作人は管理人と謀って下請けの小作を頼んでしまい,図々しく遊びながらもらった小作料を管理人と分け合って懐に入れ,会社には入れなかった。」
東拓は別に日本人だけに融資したわけじゃなくて,独立運動に加担した札付きにも分け隔てなく金を貸した。利率もかなり低かったことが知られている。
「日本の統治期間が長くなって戦争が最終段階になると,日本も朝鮮人も余裕がなくなった。知名人は毎日せきたててくる総督府の圧力の前で,親日になるか,さもなければ投獄され社会から葬られるかという実存的な選択を強いられた。
春園,六堂,崔麟ら親日派の巨頭と目される人々の共通する考えは,受動的な態勢を抜け出していっそ能動的になろう,どうせ日本の下で生きなければならない境遇ならば,積極的に行動したほうがむしろ民族に有利に働くのではないか,というものだった。
反日運動の旗手だった彼らがこう考えて民族の前に現れるまで,どれほど多くの苦悶と葛藤を経たかはおいそれとは想像できない。彼らはしかし,自分の身の安全や出世のためにその道を選んだのではない。晩年の春園は「私は民族のために親日になった」と語り,崔麟は「伯夷叔齋になるのは簡単だが,それなら誰が民族を救うのか」と言っている。結局彼らは,被害だけが増す正面からの対立ではなく,合法的で現実的な闘争理論を選んだほうがいいという結論に達したのだ。その結論が正当かどうかはまた別の問題として。」
すでに誰かが紹介してくれてたかもしれませんが。
著者は,1929年生まれ,梨花女子大を卒業した英文学者。
革命家を志した父,封建的な社会の中で奔放に生きた芸術家のおばのヘソク(晶月)を中心に,激動の時代の家族の歴史を描く。
父は社会主義思想に心酔し,三一運動を主導するも,失敗するや,国産品愛用運動などを展開。日帝の監視を逃れて満州へわたり,農地開墾,工場設立,小資本家に変身。戦争末期には,朝鮮に戻り,消極的に日本に協力しながら朝鮮人の権利拡張を図る。
戦後は,韓国民主党に肩入れしたが,国よりも利に走る世相に絶望して政治活動から引退。朝鮮戦争ではソウルに留まり,保衛部に捕らえられたりもしたが,からくも生き長らえる。最後はカトリックの洗礼を受け,59年他界。
激動の時代を,客観的に描写しています。
「父はまめで,仕事好きな人だった。奉天に落ち着くと,東拓会社から高額の融資を受けた。そしてその金で株式会社民青公社をつくり,遊休地を数万坪買い入れた。広い満州の平原には,遊んでいる土地がいくらでもあった。
父は嶺南と平安道の農家二十世帯余りをここに移住させ,土地を開墾させることにした。
しかし,父も同僚もそうした仕事は初めてだった。やってみようという意図はよかったが,満州の気候風土に不慣れで,農業などやってみたこともない人ばかりだった。当然,実際の状況は意図したとおりにはいかなかった。農業はそう簡単に短時日で習得できるものではなく,満州の土地はやせ地で,気候も過酷だった。
経験のない彼らは管理人をおいて,農民を定着させることから農地の分配,実際に小作農を頼む仕事,農場を経営する仕事など一切を任せるしかなかった。
管理人は朝鮮人だったが,東拓からもらった金は誰のものでもない金だと思っていたのか,ひどい仕事ぶりにもかかわらず,自分の実入りを懐に入れることだけに熱中していた。会社の側から小作人に耕作を頼むと,その小作人は管理人と謀って下請けの小作を頼んでしまい,図々しく遊びながらもらった小作料を管理人と分け合って懐に入れ,会社には入れなかった。」
東拓は別に日本人だけに融資したわけじゃなくて,独立運動に加担した札付きにも分け隔てなく金を貸した。利率もかなり低かったことが知られている。
「日本の統治期間が長くなって戦争が最終段階になると,日本も朝鮮人も余裕がなくなった。知名人は毎日せきたててくる総督府の圧力の前で,親日になるか,さもなければ投獄され社会から葬られるかという実存的な選択を強いられた。
春園,六堂,崔麟ら親日派の巨頭と目される人々の共通する考えは,受動的な態勢を抜け出していっそ能動的になろう,どうせ日本の下で生きなければならない境遇ならば,積極的に行動したほうがむしろ民族に有利に働くのではないか,というものだった。
反日運動の旗手だった彼らがこう考えて民族の前に現れるまで,どれほど多くの苦悶と葛藤を経たかはおいそれとは想像できない。彼らはしかし,自分の身の安全や出世のためにその道を選んだのではない。晩年の春園は「私は民族のために親日になった」と語り,崔麟は「伯夷叔齋になるのは簡単だが,それなら誰が民族を救うのか」と言っている。結局彼らは,被害だけが増す正面からの対立ではなく,合法的で現実的な闘争理論を選んだほうがいいという結論に達したのだ。その結論が正当かどうかはまた別の問題として。」
これは メッセージ 1 (violla_21 さん)への返信です.
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