★朝鮮通信使ブーム、再び!!

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

倭館(3)

投稿者: graydeerhound 投稿日時: 2004/12/31 11:29 投稿番号: [206 / 2503]
倭館における交易

中世の倭館交易では日本側は銅、硫黄、金を輸出したが、南方物産である赤色染料の蘇木、胡椒などのスパイス類も琉球経由などで朝鮮に転売した。朝鮮側輸出品は木綿や綿が中心であった。中世には木綿の本格的栽培はまだ日本では始まっておらず、江戸時代になってようやく木綿の輸入を必要としなくなったのである。また正式の通交使節との公貿易では大蔵経など朝鮮の書籍も日本に輸出された。

近世の倭館交易では日本側は銀、硫黄、金、その他南方物産を朝鮮側に輸出した。朝鮮側は朝鮮人参、トラ皮などの朝鮮産品も輸出したが、江戸時代前期の最大の輸出品は生糸、絹織物などの中国産品であった。当時、日本の絹は品質が劣り、高級衣料として中国絹が好まれためである。朝鮮はこれら中国産品を朝貢貿易や国境貿易で入手することができたが、日本は明への入港を拒絶されていたため中国密貿易船の来航を待つしかなかった。対馬藩はこの中国産品の中継貿易によって巨額の利益を上げ、藩の禄高は実質10万石以上とされた。

しかし18世紀になって日本でも絹生産の技術が向上すると中国産品の輸入が減少し、釜山交易に打撃を与えた。また朝鮮側が厳禁していた朝鮮人参の種が密かに日本に持ち出され、日本国内でも朝鮮人参栽培に成功した。一方、日本国内の銀産出量が激減したため、銀輸出が禁止され、銅や金が主要輸出品目に変わった。このため、18世紀以降、倭館交易は衰退するが、断絶することはなかった。


倭館の終焉

1867年釜山倭館に来航した対馬藩家老は明治新政府の成立を大院君政権に通告したが、朝鮮側は日本の新しい主権者が「皇上」と名乗っていることを理由に国書の受け取りを拒否した。1871年日本で廃藩置県が実施されると江戸時代以来対馬藩に委ねられていた朝鮮外交権を外務省が接収、1872年外務丞(外務大臣)・花房義質が釜山に来航し、草梁倭館を接収して日本公館と改称した。これに対して朝鮮側は強硬に退去を要求し、日朝間の外交問題に発展、日本では征韓論が台頭した。日本は1876年江華島事件を起こし砲艦外交によって朝鮮に開国を迫り、翌年日朝修好条規を締結して日本外交使節のソウル駐在を認めさせた。ここにおいて釜山の倭館は200年の歴史を閉じることになった。

現存の倭館地名

大韓民国慶尚北道漆谷(チルゴク)郡に倭館(ウェグァン)邑が現存し、京釜線の駅名ともなっているが、これは朝鮮の役で日本軍の兵糧集積所であったために付けられた地名である。
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)