倭館(1)
投稿者: graydeerhound 投稿日時: 2004/12/31 11:22 投稿番号: [204 / 2503]
来日した朝鮮通信使にばかりスポットライトが当っているが、中世から近代始めまで朝鮮南部に存在した日本人居留地である倭館はほとんど忘れられている。ここで復習しておきたい。
中世倭館
1392年に成立した朝鮮王朝は、同時期に成立した中国の明王朝のように朝貢船以外の商船入港を禁止するようなことはなく、入港地にも一切制限を加えなかった。このため、日本の大名、商人らが朝鮮に通交する者が急増したが、彼らの中には交易に不都合があると倭寇に変貌するような者もいたので、朝鮮政府は1407年頃国防上の見地から日本商船(興利倭船)の入港地を慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山広域市)と慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道鎮海市)に限定した。その後、日本の使送船(公式の使者)の入港地もこれら二港に限定された。
当時朝鮮貿易に大きな利権を持っていた対馬の早田左衛門太郎は1426年、慶尚左右道各地で任意に交易できるようにして欲しいと朝鮮政府に訴えたが、拒否され、代償として蔚山の塩浦(現在の蔚山広域市)が入港地に追加された。
これらの港は当初日本船の入港指定地に過ぎなかったが、やがて多数の日本人が住み着くようになり、朝鮮政府はこれを制止できなかった。これが三浦倭館である。
倭館に住居する日本人を朝鮮では恒居倭と呼び、居留地内では首領を頭とする自治が行われた。恒居倭のなかには漁業や農業に従事したり、朝鮮の農村に行商に赴く者もいた。しかし日本人商人には営業税、耕作者には田地税が課税された。朝鮮側のさまざまな規制が煩わしく、交易上のトラブルもあって、1510年には対馬から援軍も駆けつけて大規模な日本人の反乱がおこった。この三浦の乱は結局、朝鮮側の武力によって鎮圧され、三浦倭館は閉鎖されたが、後に一部再開された。
三浦倭館
富山浦倭館
後には釜山浦倭館とも呼ばれた。現在の釜山広域市東区子城台に所在し、行政的には北方にある東莱(トンネ)県城、軍事的には西方にある万戸営庁の管理下にあった。1494年には450人程度の日本人が居住していた。1510年の三浦の乱によって一時閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって薺浦が再開された後、1521年に富山浦倭館も再開された。釜山浦倭館は1592年の日本軍による朝鮮侵攻まで存続し、三浦倭館のなかでは最も長く日本人が住んでいた。
乃而浦倭館
薺浦倭館ともいい、現在の慶尚南道鎮海市薺徳洞槐井里にあった。当時は北方にある熊川県が管轄していた。三浦のうち最も大きなもので、1494年の在住日本人人口は2,500人に達した。朝鮮側は日本人の居住を嫌い、たびたび送還を行ったが、いつのまにかまた増えるという状態であった。1510年の三浦の乱によって一旦閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって再開され、1544年の倭寇事件で再び閉鎖され、復活しなかった。
塩浦倭館
現在の蔚山広域市中区塩浦洞に所在した。蔚山旧市街から湾を隔てた南岸にあり、現代自動車工場敷地となっている。当時は蔚山旧市街に置かれた蔚山郡庁と慶尚左道兵馬節度使の管轄下にあった。1426年に開港され、1494年には約150人の日本人が住み、1510年の三浦の乱によって閉鎖され、二度と復活しなかった。三浦倭館の中では最も小規模で、存続期間も短かった。
中世倭館
1392年に成立した朝鮮王朝は、同時期に成立した中国の明王朝のように朝貢船以外の商船入港を禁止するようなことはなく、入港地にも一切制限を加えなかった。このため、日本の大名、商人らが朝鮮に通交する者が急増したが、彼らの中には交易に不都合があると倭寇に変貌するような者もいたので、朝鮮政府は1407年頃国防上の見地から日本商船(興利倭船)の入港地を慶尚左道都万戸所在地の東莱県富山浦(現在の釜山広域市)と慶尚右道都万戸所在地の金海府乃而浦(現在の慶尚南道鎮海市)に限定した。その後、日本の使送船(公式の使者)の入港地もこれら二港に限定された。
当時朝鮮貿易に大きな利権を持っていた対馬の早田左衛門太郎は1426年、慶尚左右道各地で任意に交易できるようにして欲しいと朝鮮政府に訴えたが、拒否され、代償として蔚山の塩浦(現在の蔚山広域市)が入港地に追加された。
これらの港は当初日本船の入港指定地に過ぎなかったが、やがて多数の日本人が住み着くようになり、朝鮮政府はこれを制止できなかった。これが三浦倭館である。
倭館に住居する日本人を朝鮮では恒居倭と呼び、居留地内では首領を頭とする自治が行われた。恒居倭のなかには漁業や農業に従事したり、朝鮮の農村に行商に赴く者もいた。しかし日本人商人には営業税、耕作者には田地税が課税された。朝鮮側のさまざまな規制が煩わしく、交易上のトラブルもあって、1510年には対馬から援軍も駆けつけて大規模な日本人の反乱がおこった。この三浦の乱は結局、朝鮮側の武力によって鎮圧され、三浦倭館は閉鎖されたが、後に一部再開された。
三浦倭館
富山浦倭館
後には釜山浦倭館とも呼ばれた。現在の釜山広域市東区子城台に所在し、行政的には北方にある東莱(トンネ)県城、軍事的には西方にある万戸営庁の管理下にあった。1494年には450人程度の日本人が居住していた。1510年の三浦の乱によって一時閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって薺浦が再開された後、1521年に富山浦倭館も再開された。釜山浦倭館は1592年の日本軍による朝鮮侵攻まで存続し、三浦倭館のなかでは最も長く日本人が住んでいた。
乃而浦倭館
薺浦倭館ともいい、現在の慶尚南道鎮海市薺徳洞槐井里にあった。当時は北方にある熊川県が管轄していた。三浦のうち最も大きなもので、1494年の在住日本人人口は2,500人に達した。朝鮮側は日本人の居住を嫌い、たびたび送還を行ったが、いつのまにかまた増えるという状態であった。1510年の三浦の乱によって一旦閉鎖されたが、1512年の対馬と朝鮮の条約によって再開され、1544年の倭寇事件で再び閉鎖され、復活しなかった。
塩浦倭館
現在の蔚山広域市中区塩浦洞に所在した。蔚山旧市街から湾を隔てた南岸にあり、現代自動車工場敷地となっている。当時は蔚山旧市街に置かれた蔚山郡庁と慶尚左道兵馬節度使の管轄下にあった。1426年に開港され、1494年には約150人の日本人が住み、1510年の三浦の乱によって閉鎖され、二度と復活しなかった。三浦倭館の中では最も小規模で、存続期間も短かった。
これは メッセージ 1 (korean_tiger2003 さん)への返信です.