いまやオーストラリアを許すべきとき
投稿者: b_excess_2003 投稿日時: 2006/06/14 11:04 投稿番号: [7024 / 30895]
何考えとんねんこの教授
オーストラリアが過去に許しを請うような悪いことしたのか?
普通に戦って普通に南チョンが負けただけやないか
それを日本に勝ったから「許すべきとき」・・・
【W杯コラム】いまやオーストラリアを許すべきとき
韓国代表とオーストラリア代表の因縁の数々
サッカー韓国代表の前監督が、今度は他国の代表チームを率いてワールドカップ(W杯)に臨んだ。これは韓国のサッカー史において記念すべきことではないだろうか。12日に行われたオーストラリア対日本戦は、両チームの監督の出身国がオランダとブラジルであることを考えれば、4大陸の激突といっても過言ではないだろう。
歴史は繰り返されるのか。この試合は延長戦の有無を別として、前大会の韓国対イタリア戦を彷彿とさせた。前半26分、中村俊輔がゴールを決めた直後、モニターを見つめて相手FWのゴールキーパーに対する反則だと抗議したヒディンク監督の怒り、そして後半残り8分間に繰り広げられた同点弾と逆転弾、そしてダメ押し弾まで飛び出した集中力。前大会で韓国をベスト4に導いた実績を買い、代表監督に迎え入れたオーストラリアのサッカー協会に、ヒディンク監督は今大会初の逆転勝ちという「マジック」をプレゼントした。
今や私にとってはオーストラリアを許すべきときが来た。1969年10月19日、韓国・日本・オーストラリアが激突した、70年W杯アジア地区一次予選のダブルリーグ最終戦。パク・スイルとバルーツのゴールで両チームの得点は1対1となったが、後半20分、相手陣営を風のように駆け抜けた李會擇(イ・フェテク)がスビスの反則で転倒し、主審はペナルティキックを宣告した。
スタンドを埋めつくした観衆が息を殺して見守る中、イム・グクチャンがシュートを放つが、PKは失敗に終わった。2002年W杯の準々決勝スペイン戦でPKに臨んだ洪明甫(ホン・ミョンボ)は「これでゴールを決められなかったら、海外に移住しなくてはならないのでは」と思ったというが、実際にイム・グクチャンは移住した。
そして4年後もまた歴史は繰り返された。アジア・オセアニアで1カ国のみが本大会出場権を得られた時期、最後に勝ち残ったのは韓国とオーストラリアだった。1973年11月10日、みぞれがちらつくソウル運動場。13日前にシドニーでのアウェー戦で 0対0で引き分けた韓国は、前半14分のキム・ジェハンの先制ゴールと、27分のコ・ジェウクの追加ゴールで2対0とリードしていた。
ところが29分と49分に連続でオーストラリアにゴールを許し、同点となった。その頃はまだ「アウェー多得点チーム勝利の原則」がなかった時代で、国際サッカー連盟(FIFA)は第3国での再試合を命じ、試合の翌日に両チームの選手らは同じ飛行機でソウルから香港へ移動した。
夜間の試合となった韓国とオーストラリアの一番勝負。監督官は韓国代表ゴールキーパー、イ・セヨンの群青色のユニフォームが、黒い審判服と似ていて紛らわしいとの理由で着替えさせた。チームメートらに囲まれユニフォームを着替えたイ・セヨンはその時何を思ったのだろうか。その試合で韓国は0対1で負け、74年西ドイツ大会への出場権を逃した。
78年にもオーストラリアは韓国の前に立ちはだかった。最終予選まで進出した韓国は、イランとの試合で、それぞれ0対0、2対2で引き分けたが、シドニーでのオーストラリア戦では1対2で逆転負けを喫し、3勝1敗4引き分けでまたも2位となり悔し涙を飲んだ。
このときのアウェー戦でも、ゴールキーパーにトラブルがあった。ゴールの応酬が続く中、ビョン・ホヨンがオーストラリアのストライカーと衝突し負傷退場、代わって出場したキム・ファンホはゴール前で相手選手と1対1になるピンチを迎えた。キム・ファンホは決死のスライディングでこれを防いだが、彼が蹴ったボールが相手のすねに当たり、そのボールは無念にも韓国のゴールに吸い込まれていってしまった。
また2002年大会の準決勝でも、イ・ウンジェがナイスセーブしたかに思われたボールが、よりによってバラックの足元に行くなど、偶然とはいえ、意地の悪い軌跡を描いた。
チョン・ウォンジェ崇実大学教授(前サッカー協会技術委員)
朝鮮日報
オーストラリアが過去に許しを請うような悪いことしたのか?
普通に戦って普通に南チョンが負けただけやないか
それを日本に勝ったから「許すべきとき」・・・
【W杯コラム】いまやオーストラリアを許すべきとき
韓国代表とオーストラリア代表の因縁の数々
サッカー韓国代表の前監督が、今度は他国の代表チームを率いてワールドカップ(W杯)に臨んだ。これは韓国のサッカー史において記念すべきことではないだろうか。12日に行われたオーストラリア対日本戦は、両チームの監督の出身国がオランダとブラジルであることを考えれば、4大陸の激突といっても過言ではないだろう。
歴史は繰り返されるのか。この試合は延長戦の有無を別として、前大会の韓国対イタリア戦を彷彿とさせた。前半26分、中村俊輔がゴールを決めた直後、モニターを見つめて相手FWのゴールキーパーに対する反則だと抗議したヒディンク監督の怒り、そして後半残り8分間に繰り広げられた同点弾と逆転弾、そしてダメ押し弾まで飛び出した集中力。前大会で韓国をベスト4に導いた実績を買い、代表監督に迎え入れたオーストラリアのサッカー協会に、ヒディンク監督は今大会初の逆転勝ちという「マジック」をプレゼントした。
今や私にとってはオーストラリアを許すべきときが来た。1969年10月19日、韓国・日本・オーストラリアが激突した、70年W杯アジア地区一次予選のダブルリーグ最終戦。パク・スイルとバルーツのゴールで両チームの得点は1対1となったが、後半20分、相手陣営を風のように駆け抜けた李會擇(イ・フェテク)がスビスの反則で転倒し、主審はペナルティキックを宣告した。
スタンドを埋めつくした観衆が息を殺して見守る中、イム・グクチャンがシュートを放つが、PKは失敗に終わった。2002年W杯の準々決勝スペイン戦でPKに臨んだ洪明甫(ホン・ミョンボ)は「これでゴールを決められなかったら、海外に移住しなくてはならないのでは」と思ったというが、実際にイム・グクチャンは移住した。
そして4年後もまた歴史は繰り返された。アジア・オセアニアで1カ国のみが本大会出場権を得られた時期、最後に勝ち残ったのは韓国とオーストラリアだった。1973年11月10日、みぞれがちらつくソウル運動場。13日前にシドニーでのアウェー戦で 0対0で引き分けた韓国は、前半14分のキム・ジェハンの先制ゴールと、27分のコ・ジェウクの追加ゴールで2対0とリードしていた。
ところが29分と49分に連続でオーストラリアにゴールを許し、同点となった。その頃はまだ「アウェー多得点チーム勝利の原則」がなかった時代で、国際サッカー連盟(FIFA)は第3国での再試合を命じ、試合の翌日に両チームの選手らは同じ飛行機でソウルから香港へ移動した。
夜間の試合となった韓国とオーストラリアの一番勝負。監督官は韓国代表ゴールキーパー、イ・セヨンの群青色のユニフォームが、黒い審判服と似ていて紛らわしいとの理由で着替えさせた。チームメートらに囲まれユニフォームを着替えたイ・セヨンはその時何を思ったのだろうか。その試合で韓国は0対1で負け、74年西ドイツ大会への出場権を逃した。
78年にもオーストラリアは韓国の前に立ちはだかった。最終予選まで進出した韓国は、イランとの試合で、それぞれ0対0、2対2で引き分けたが、シドニーでのオーストラリア戦では1対2で逆転負けを喫し、3勝1敗4引き分けでまたも2位となり悔し涙を飲んだ。
このときのアウェー戦でも、ゴールキーパーにトラブルがあった。ゴールの応酬が続く中、ビョン・ホヨンがオーストラリアのストライカーと衝突し負傷退場、代わって出場したキム・ファンホはゴール前で相手選手と1対1になるピンチを迎えた。キム・ファンホは決死のスライディングでこれを防いだが、彼が蹴ったボールが相手のすねに当たり、そのボールは無念にも韓国のゴールに吸い込まれていってしまった。
また2002年大会の準決勝でも、イ・ウンジェがナイスセーブしたかに思われたボールが、よりによってバラックの足元に行くなど、偶然とはいえ、意地の悪い軌跡を描いた。
チョン・ウォンジェ崇実大学教授(前サッカー協会技術委員)
朝鮮日報
これは メッセージ 1 (greatjp22 さん)への返信です.
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