南朝鮮軍の残酷行為 1
投稿者: jgeilsbandfreak 投稿日時: 2010/03/23 18:39 投稿番号: [19144 / 30895]
ああ, 震撼の韓国軍!
ベトナム戦 24周年にして見た、私たちの恥部, ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録
(写真/ベトナム戦でベトコンの陣地を捜索・破壊するという作戦上の名分が大量虐殺を正当化した.)
戦争はこんな所でも起きたのだろうか. 丸いひさしの尾根、そして緑の野原, その上に白く降り注ぐ陽差し, 椰子の樹とマンゴ―とパパイヤ, バナナの樹…. 窓の外に流れる風景には、見える限り熱帯の和やかさだけが広がっている. 太陽が灼けつく裏山には、腰を地につけるように田畑を耕すベトナム女性たちの編み笠だけがちらほらと島のように動いている. 真昼の太陽に熱せられて飴のように曲がってしまいそうな道には、腰をまっすぐに伸ばして自転車を走らせる女学生たちの真っ白いアオザイの裾が、重い風の中を雲のように飛び交う. 果して、わたしたちはあのとき、このような女性たちにまで銃口を向けたのだろうか. 理性はなく、狂気だけが残った人間が行った殺戮の現場, その痛みの肌に触れに来た‘ナムチュティン’(南朝鮮)の心情を知ってか知らずか、バスはセンターラインもないアスファルト道を果てしなく走った.
生き残った老僧の証言
"1969年 10月14日, ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した. サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒, 同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. <AFP通信>は、この事件で71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"
(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.)
筆者は2年前, ベトナム政治局から出された‘戦争犯罪調査報告から- 南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪’という資料の一部をようやく手に入れることができた. 私はこの資料をまだ検証していない、ベトナム側の一方的な報告書, しかし、いつかは解くべき宿題として机の引出しの中にしまってあった. それを、‘父の世代に行なわれた誤ちだけど’ 韓国とベトナム間のお互いが殺し合わねばならなかった‘痛い歴史の決着をつけるための’小さな努力の一環として、ベトナムを訪問した韓国市民団体‘私と私たち(ナ ワ ウリ)’一行に初めてこの資料を公開した. ‘私と私たち’は、昨年にも日本の市民団体が企画したピースボート(Peace Boat)に乗り込み、韓国軍のベトナム民間人虐殺現場を見て回って、証言を収録したことがある. “日本人の助けを借りて韓国人の問題を省みるという事実が切なかった”という彼らは、これからは‘韓国人の力で’ぶつかってみようという意志を結集して、また再び長い旅程に出たのである. 筆者は初めて寄着時から同行することにした.
ベトナム南部海岸に位置したパンランは、観光ガイドブックにも出てこない小さな町だ. 最大の盛り場であることが明らかなバス停留場にはタクシーが1台も見えず, 歩いて探したホテルにも、ありふれた冷蔵庫もなかった. ただ ‘ヌクマム(ベトナムの漁醤)の町’という名声らしく、生臭い塩気が大気をぎっしり埋めているだけだった. 私たち一行は、遠くのリンソン寺を探し出した. しかし、資料中に出ているリンソン寺は戦争中に消えてなくなっていた. 蒸し鍋のような暑さとひどく揺れるバスに苦しめられながら8時間も走ってきたのに、全てが無駄に終るのではないだろうかという焦燥感を感じながらも, 一方ではなぜかはわからないが安堵の溜息が流れ出た.
翌朝, 私たち一行をパンランまで案内したベトナム人学生から急な知らせがきた. 元来、ホーチミンからパンランへと入る町角に立っていたリンソン寺は戦争中に爆破されて, パンランからナチャンへ行く道に同じ名前の寺がまた建てられたということだ. わたしたちはすぐさまそちらへ走った. そして、そこで当時唯一の生存者のプフ(78)僧侶と現場目撃者のウンウェンティ ユエンハン(45)に会うことができた. ここまで来る間、終始筆者を押さえ付けてきた不安が, 認めたくなかった話が目の前に現実となって現れた.
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
2に続く。
ベトナム戦 24周年にして見た、私たちの恥部, ベトナム戦犯調査委のおぞましい記録
(写真/ベトナム戦でベトコンの陣地を捜索・破壊するという作戦上の名分が大量虐殺を正当化した.)
戦争はこんな所でも起きたのだろうか. 丸いひさしの尾根、そして緑の野原, その上に白く降り注ぐ陽差し, 椰子の樹とマンゴ―とパパイヤ, バナナの樹…. 窓の外に流れる風景には、見える限り熱帯の和やかさだけが広がっている. 太陽が灼けつく裏山には、腰を地につけるように田畑を耕すベトナム女性たちの編み笠だけがちらほらと島のように動いている. 真昼の太陽に熱せられて飴のように曲がってしまいそうな道には、腰をまっすぐに伸ばして自転車を走らせる女学生たちの真っ白いアオザイの裾が、重い風の中を雲のように飛び交う. 果して、わたしたちはあのとき、このような女性たちにまで銃口を向けたのだろうか. 理性はなく、狂気だけが残った人間が行った殺戮の現場, その痛みの肌に触れに来た‘ナムチュティン’(南朝鮮)の心情を知ってか知らずか、バスはセンターラインもないアスファルト道を果てしなく走った.
生き残った老僧の証言
"1969年 10月14日, ベトナム南部パンラン地域で、韓国軍人らがリンソン(Linh Son)寺の僧侶に向かって銃器を振り回す事件が発生した. サイゴンの報告によれば、韓国軍一名がリンソン寺でベトナム女性に戯れようとして住持僧に追出されると、これに激怒, 同僚を誘って銃器を乱射したことが明らかになった. <AFP通信>は、この事件で71歳の住持僧, 69歳の老僧, 41歳の女僧, 15歳の修行僧 等 4人が死亡した事実をベトナム政府が公式に認めたと報道した.(<人民軍>紙 1969. 10. 24)"
(写真/当時 リンソン寺で唯一生き残ったプフ僧侶.)
筆者は2年前, ベトナム政治局から出された‘戦争犯罪調査報告から- 南ベトナムでの南朝鮮軍隊の罪悪’という資料の一部をようやく手に入れることができた. 私はこの資料をまだ検証していない、ベトナム側の一方的な報告書, しかし、いつかは解くべき宿題として机の引出しの中にしまってあった. それを、‘父の世代に行なわれた誤ちだけど’ 韓国とベトナム間のお互いが殺し合わねばならなかった‘痛い歴史の決着をつけるための’小さな努力の一環として、ベトナムを訪問した韓国市民団体‘私と私たち(ナ ワ ウリ)’一行に初めてこの資料を公開した. ‘私と私たち’は、昨年にも日本の市民団体が企画したピースボート(Peace Boat)に乗り込み、韓国軍のベトナム民間人虐殺現場を見て回って、証言を収録したことがある. “日本人の助けを借りて韓国人の問題を省みるという事実が切なかった”という彼らは、これからは‘韓国人の力で’ぶつかってみようという意志を結集して、また再び長い旅程に出たのである. 筆者は初めて寄着時から同行することにした.
ベトナム南部海岸に位置したパンランは、観光ガイドブックにも出てこない小さな町だ. 最大の盛り場であることが明らかなバス停留場にはタクシーが1台も見えず, 歩いて探したホテルにも、ありふれた冷蔵庫もなかった. ただ ‘ヌクマム(ベトナムの漁醤)の町’という名声らしく、生臭い塩気が大気をぎっしり埋めているだけだった. 私たち一行は、遠くのリンソン寺を探し出した. しかし、資料中に出ているリンソン寺は戦争中に消えてなくなっていた. 蒸し鍋のような暑さとひどく揺れるバスに苦しめられながら8時間も走ってきたのに、全てが無駄に終るのではないだろうかという焦燥感を感じながらも, 一方ではなぜかはわからないが安堵の溜息が流れ出た.
翌朝, 私たち一行をパンランまで案内したベトナム人学生から急な知らせがきた. 元来、ホーチミンからパンランへと入る町角に立っていたリンソン寺は戦争中に爆破されて, パンランからナチャンへ行く道に同じ名前の寺がまた建てられたということだ. わたしたちはすぐさまそちらへ走った. そして、そこで当時唯一の生存者のプフ(78)僧侶と現場目撃者のウンウェンティ ユエンハン(45)に会うことができた. ここまで来る間、終始筆者を押さえ付けてきた不安が, 認めたくなかった話が目の前に現実となって現れた.
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
2に続く。
これは メッセージ 19143 (kong_al_e さん)への返信です.
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