Re: 南京大虐殺
投稿者: samurai_06_japan 投稿日時: 2008/05/30 00:26 投稿番号: [12655 / 30895]
アポン君、相変わらず元気で、エンジョイ板で虚仮にされているかね?(笑)
>65連隊 第二中隊 栗原利一(仮名)スケッチ
>揚子江と幕府山の間の岸辺に捕虜が集められ、
>機関銃を持った日本兵が囲んでおり、逃げ場はない。
>(栗原さんは捕虜数を1万3千5百人としている。)
この「栗原利一」氏は、仮名じゃなくってご本人のお名前だよ。
「仮名」は、毎日新聞(1959年8月7日掲載)時に、「K氏」と言う「仮名」を使われていたが。
それと、栗原氏は掲載後、毎日新聞に対し、こう抗議を申し込まれているね。
「中国側の公式資料集『証言・南京大虐殺』の30万・40万の虐殺に腹を立て、
これに反論するため記者に話したのだが、都合のよい部分だけをつまみ食いされ、
あのような記事になり、匿名の中傷や悪罵をあびて困っている」
と。
で、毎日新聞は、1959年9月27日「記者の目」と題し、「匿名の中傷、卑劣だ」という記事の中で、
栗原氏の「大虐殺否定」の真意を小さく報じたけど、しかしその大げさな記事の力点は、
栗原氏に対する非難は怪しからんというのであって、記者の誤った報道に対する反省も謝罪のカケラも見られなかったね。
因みに、同じ第65連隊の連隊砲小隊長平林貞治氏(当時少尉)は。
(1)65連隊の兵力は、上海の激戦で死傷者続出し、出発時の約3分の1の1500足らず。
しかも強行軍と戦闘で疲労困憊。
中国軍捕虜は、連隊兵力の10倍近い、約1万4000。
捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した。
(2)上元門の校舎のような建物に簡単な竹矢来をつくり収容したが、捕虜は無統制で服装もまちまち。
指揮官もおらず、やはり疲れていた。
山田旅団長命令で非戦闘員と思われる者約半数をその場で釈放した。
(3)2日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡。
内心ホットした。
その間逆襲の恐怖は常に持っていた。
(4)彼らを縛ったのは彼らの履いている黒い巻き脚絆(ゲートル)。
ほとんど縛ったが縛ったにはならない。
捕虜は約4千、監視兵は千人たらず。
しかも私の部隊は砲兵で、小銃がなくゴボウ剣(銃剣の事)のみ。
出発したのは正午すぎ、列の長さ約4キロ、私は最後尾にいた。
(5)騒動が起きたのは薄暮れ、左は揚子江支流、右は崖で、道は険岨となり、不吉な予感があった。
突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引き金に、前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が聞こえた。
(6)最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボウ剣を片手に振り回し、逃げるのが精一杯であった。
(7)翌朝私は将校集会所で、先頭付近にいた1人の将校(特に名は秘す)が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され、
兵6名が死亡、10数名が重軽傷を負った旨を知らされた。
(8)その翌日全員また使役に駆り出され、死体の始末をさせられた。
作業は半日で終わったと記憶する。
中国側の死者1000〜3000人ぐらいと言われ、葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ1人これをとがめたり撃つ者はいなかった。
我が軍の被害が少なかったのは、彼らが逃亡が目的だったからと思う。
因みに言えばね。
戦闘行軍で、「スケッチブック」か、それに準ずる様な「画材」は、持ち運べないよ?
※軍規違反だから。
どうやって、スケッチしたのかな?
>65連隊 第二中隊 栗原利一(仮名)スケッチ
>揚子江と幕府山の間の岸辺に捕虜が集められ、
>機関銃を持った日本兵が囲んでおり、逃げ場はない。
>(栗原さんは捕虜数を1万3千5百人としている。)
この「栗原利一」氏は、仮名じゃなくってご本人のお名前だよ。
「仮名」は、毎日新聞(1959年8月7日掲載)時に、「K氏」と言う「仮名」を使われていたが。
それと、栗原氏は掲載後、毎日新聞に対し、こう抗議を申し込まれているね。
「中国側の公式資料集『証言・南京大虐殺』の30万・40万の虐殺に腹を立て、
これに反論するため記者に話したのだが、都合のよい部分だけをつまみ食いされ、
あのような記事になり、匿名の中傷や悪罵をあびて困っている」
と。
で、毎日新聞は、1959年9月27日「記者の目」と題し、「匿名の中傷、卑劣だ」という記事の中で、
栗原氏の「大虐殺否定」の真意を小さく報じたけど、しかしその大げさな記事の力点は、
栗原氏に対する非難は怪しからんというのであって、記者の誤った報道に対する反省も謝罪のカケラも見られなかったね。
因みに、同じ第65連隊の連隊砲小隊長平林貞治氏(当時少尉)は。
(1)65連隊の兵力は、上海の激戦で死傷者続出し、出発時の約3分の1の1500足らず。
しかも強行軍と戦闘で疲労困憊。
中国軍捕虜は、連隊兵力の10倍近い、約1万4000。
捕虜をいかに食わせるか、その食器さがしにまず苦労した。
(2)上元門の校舎のような建物に簡単な竹矢来をつくり収容したが、捕虜は無統制で服装もまちまち。
指揮官もおらず、やはり疲れていた。
山田旅団長命令で非戦闘員と思われる者約半数をその場で釈放した。
(3)2日目の夕刻火事があり、混乱に乗じてさらに半数が逃亡。
内心ホットした。
その間逆襲の恐怖は常に持っていた。
(4)彼らを縛ったのは彼らの履いている黒い巻き脚絆(ゲートル)。
ほとんど縛ったが縛ったにはならない。
捕虜は約4千、監視兵は千人たらず。
しかも私の部隊は砲兵で、小銃がなくゴボウ剣(銃剣の事)のみ。
出発したのは正午すぎ、列の長さ約4キロ、私は最後尾にいた。
(5)騒動が起きたのは薄暮れ、左は揚子江支流、右は崖で、道は険岨となり、不吉な予感があった。
突如中洲の方に銃声があり、その銃声を引き金に、前方で叫喚とも喊声ともつかぬ異様な声が聞こえた。
(6)最後列まで一斉に狂乱となり、機銃は鳴り響き、捕虜は算を乱し、私は軍刀で、兵はゴボウ剣を片手に振り回し、逃げるのが精一杯であった。
(7)翌朝私は将校集会所で、先頭付近にいた1人の将校(特に名は秘す)が捕虜に帯刀を奪われ、刺殺され、
兵6名が死亡、10数名が重軽傷を負った旨を知らされた。
(8)その翌日全員また使役に駆り出され、死体の始末をさせられた。
作業は半日で終わったと記憶する。
中国側の死者1000〜3000人ぐらいと言われ、葦の中に身を隠す者を多く見たが、だれ1人これをとがめたり撃つ者はいなかった。
我が軍の被害が少なかったのは、彼らが逃亡が目的だったからと思う。
因みに言えばね。
戦闘行軍で、「スケッチブック」か、それに準ずる様な「画材」は、持ち運べないよ?
※軍規違反だから。
どうやって、スケッチしたのかな?
これは メッセージ 12647 (nullpo5 さん)への返信です.
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