お前らそんなんだから嫌われんだよ
投稿者: reback_88 投稿日時: 2004/05/20 23:26 投稿番号: [9692 / 38959]
朝鮮人は朝鮮に帰れ」考
「朝鮮人は朝鮮に帰れ」という発言はいたく在日朝鮮人を傷つけるものである。これを聞く在日の多くは、感情的になって反発してしまう。しかしなぜ日本人がこのような発言をするのか、ちょっと冷静になって考えてみる必要がある。
在日朝鮮人がなぜ日本にいるのか、ということについて「やむにやまれず」論が説かれている。かつての日本が犯した強制連行の結果、あるいは植民地支配の結果「やむにやまれず」日本に住んでいるのだから、われわれ在日にとって住みにくいというのは日本に全責任があるのだ、民族差別は加害者である日本人の問題なのだ、日本はわれわれを一体どうしてくれるというのだ、というように日本を撃つという考えになり、それが「民族差別と闘う」論理となる。これを聞かされた日本人は次のような素朴な疑問を抱く。
在日朝鮮人が日本に居住するのは自らの意思に反して居住しているということだろう。しかも日本社会の朝鮮人に対する民族差別は今なお厳しいという。イヤイヤ住む日本でしかも周りは差別者・加害者の日本人ばっかりの所で暮らすのはさぞ苦痛なことだろう。ならば自分の意に沿うところに引っ越せばいいのではないか。日本人では先祖からの土地を出て行くわけにいかない人がいるが、在日はそういうことはなかろう。意に反して無理やり強制連行されてきたと言うのなら、元いたところの祖国の韓国か北朝鮮に帰るのが一番いいのではないか。自分の祖国である以上は、外国である日本よりは住みやすいだろう。北朝鮮にはこれまで9万人以上の在日が帰国しているし、韓国にもいつでも帰国することができるだろう。それは困難なことではなく容易なことのはずだ。もし祖国もイヤならアメリカやカナダに移住することも可能だ。日本から出て行くのにダメとは誰も言わないはずだ。
この疑問に対する明快な答えは「民族差別と闘う」運動側には用意されていない。こういった疑問をふだんから感じている日本人は何かの機会にうっかりと「朝鮮人はなぜ朝鮮に帰らないのか」と発言してしまい、運動側は「無理やり連れてきておいて、何てことを言うのだ」「今さら帰れと言われても帰れるわけがないだろう」と感情的な反発をし、「過去を反省していない」「悪質な民族差別発言」として大きな問題になることもある。問題化してしまうと、よく分からないが相手の気に障ったらしい、怖いからとりあえず反省の言葉を言ってこれからは黙っておこう、嵐が過ぎるのを待とう、となる。そしていくら日本の悪逆非道の植民地支配の歴史を勉強しても、やはり「そんな日本になぜ住み続けるのか、祖国になぜ帰らないのか」という疑問は、口に出さなくてもいつまでも心に残ることになる。「やむにやまれず」論は明快さに欠ける論であり、多くの日本人を納得させるものではない。
またこの論は、在日としての主体性を喪失させてしまうものでもある。「在日を生かすも殺すも日本がどう変わるかということだ」とか「日本が真に国際化しない限り在日は人間らしく生きられないのだ」といったような考えになってしまう。このようなアピールは在日の活動家からよく言われたものであるし、現在もそうである。その主張をよくよく吟味してみると、日本のあり様によって自分たちの生き方が規制されるというものであり、またオレがまともに生きられないのは日本社会のせいだと他に責任を転化することに通じるものでもあり、従ってあまりにも主体性のない考えである。
在日の活動家は自らの在日社会に対しては、日本が差別的であろうがどうあろうが、自らの権益と民族性を守り、生活を営む日本という地域社会に貢献して自分たちへの評価を高くするよう努力するべきことを説き、日本社会に対しては我々はこれだけの努力をしている、日本の皆さんはこれを暖かく見守ってほしいという呼びかけこそがなされるべきであると思う。しかし「やむにやまれず」論は、このような日本に生きる主体性・積極性を否定してしまう論理になろう。
過去の歴史を持ち出し、差別されることの苦痛を訴えるのはそろそろ止めにしたらどうかと思う。在日朝鮮人は強制連行の結果であり「やむにやまれず」日本に居住しているという主張は、日本人から「だったら朝鮮に帰れ」という反発を惹起させるだけでなく、在日自身が現在および将来にこの日本で生活することの積極性と主体性を失わせるものだ。
かつて在日一世のおばあさんが「住めば都で、日本もなかなかいい所や」と語ってくれたが、それは在日を積極的に生きようとする非常にいい言葉だと思った。
「やむにやまれず」論から「住めば都」論への転換が求められていると思う。
「朝鮮人は朝鮮に帰れ」という発言はいたく在日朝鮮人を傷つけるものである。これを聞く在日の多くは、感情的になって反発してしまう。しかしなぜ日本人がこのような発言をするのか、ちょっと冷静になって考えてみる必要がある。
在日朝鮮人がなぜ日本にいるのか、ということについて「やむにやまれず」論が説かれている。かつての日本が犯した強制連行の結果、あるいは植民地支配の結果「やむにやまれず」日本に住んでいるのだから、われわれ在日にとって住みにくいというのは日本に全責任があるのだ、民族差別は加害者である日本人の問題なのだ、日本はわれわれを一体どうしてくれるというのだ、というように日本を撃つという考えになり、それが「民族差別と闘う」論理となる。これを聞かされた日本人は次のような素朴な疑問を抱く。
在日朝鮮人が日本に居住するのは自らの意思に反して居住しているということだろう。しかも日本社会の朝鮮人に対する民族差別は今なお厳しいという。イヤイヤ住む日本でしかも周りは差別者・加害者の日本人ばっかりの所で暮らすのはさぞ苦痛なことだろう。ならば自分の意に沿うところに引っ越せばいいのではないか。日本人では先祖からの土地を出て行くわけにいかない人がいるが、在日はそういうことはなかろう。意に反して無理やり強制連行されてきたと言うのなら、元いたところの祖国の韓国か北朝鮮に帰るのが一番いいのではないか。自分の祖国である以上は、外国である日本よりは住みやすいだろう。北朝鮮にはこれまで9万人以上の在日が帰国しているし、韓国にもいつでも帰国することができるだろう。それは困難なことではなく容易なことのはずだ。もし祖国もイヤならアメリカやカナダに移住することも可能だ。日本から出て行くのにダメとは誰も言わないはずだ。
この疑問に対する明快な答えは「民族差別と闘う」運動側には用意されていない。こういった疑問をふだんから感じている日本人は何かの機会にうっかりと「朝鮮人はなぜ朝鮮に帰らないのか」と発言してしまい、運動側は「無理やり連れてきておいて、何てことを言うのだ」「今さら帰れと言われても帰れるわけがないだろう」と感情的な反発をし、「過去を反省していない」「悪質な民族差別発言」として大きな問題になることもある。問題化してしまうと、よく分からないが相手の気に障ったらしい、怖いからとりあえず反省の言葉を言ってこれからは黙っておこう、嵐が過ぎるのを待とう、となる。そしていくら日本の悪逆非道の植民地支配の歴史を勉強しても、やはり「そんな日本になぜ住み続けるのか、祖国になぜ帰らないのか」という疑問は、口に出さなくてもいつまでも心に残ることになる。「やむにやまれず」論は明快さに欠ける論であり、多くの日本人を納得させるものではない。
またこの論は、在日としての主体性を喪失させてしまうものでもある。「在日を生かすも殺すも日本がどう変わるかということだ」とか「日本が真に国際化しない限り在日は人間らしく生きられないのだ」といったような考えになってしまう。このようなアピールは在日の活動家からよく言われたものであるし、現在もそうである。その主張をよくよく吟味してみると、日本のあり様によって自分たちの生き方が規制されるというものであり、またオレがまともに生きられないのは日本社会のせいだと他に責任を転化することに通じるものでもあり、従ってあまりにも主体性のない考えである。
在日の活動家は自らの在日社会に対しては、日本が差別的であろうがどうあろうが、自らの権益と民族性を守り、生活を営む日本という地域社会に貢献して自分たちへの評価を高くするよう努力するべきことを説き、日本社会に対しては我々はこれだけの努力をしている、日本の皆さんはこれを暖かく見守ってほしいという呼びかけこそがなされるべきであると思う。しかし「やむにやまれず」論は、このような日本に生きる主体性・積極性を否定してしまう論理になろう。
過去の歴史を持ち出し、差別されることの苦痛を訴えるのはそろそろ止めにしたらどうかと思う。在日朝鮮人は強制連行の結果であり「やむにやまれず」日本に居住しているという主張は、日本人から「だったら朝鮮に帰れ」という反発を惹起させるだけでなく、在日自身が現在および将来にこの日本で生活することの積極性と主体性を失わせるものだ。
かつて在日一世のおばあさんが「住めば都で、日本もなかなかいい所や」と語ってくれたが、それは在日を積極的に生きようとする非常にいい言葉だと思った。
「やむにやまれず」論から「住めば都」論への転換が求められていると思う。
これは メッセージ 9688 (sugyonjp さん)への返信です.