偉大な朝鮮民族の歴史!④
投稿者: sugyonjp 投稿日時: 2004/07/04 23:31 投稿番号: [13705 / 38959]
大氏高句麗の立国
西暦699年、大仲象皇帝に続いて皇位に昇った大祚栄は、この年に改元して天統とし、国号を大震国とした。
昔の高句麗を導いていた高氏たちが積極的に新政府に参加することで、大氏高句麗はすぐに安定を取り戻すようになったが、北国の強力な黒水部との交渉は結局失敗に帰してしまった。 千年にわたる扶餘族(高氏高句麗)に対する恨みが、黒水部が新政府に参加することを拒否した理由だった。
大祚栄は組閣を断行し、太子 大武芸を送って唐と相互承認協定を結んだ後、皇帝の母方のおじである大武芸を駐唐初代大使として派遣した。
西暦719年、祚栄の後を継いで大武芸が帝位に昇った。 皆が新皇帝の即位を祝賀したが、帝位を狙っていた大門芸は逆謀を試み、これに失敗すると唐へ逃げた。 この渦中で逆謀に関わっていた黒水部の可汗イェソクリギが処刑され、これで困難にも民族統一は達成できた。
大唐懲罰戦争
唐懲罰戦を繰り広げるのに先立って、大武芸は唐の同盟国 新羅を牽制するためにコ・イニなどを日本に派遣、同盟を結び、張文休を連合軍総司令官に任命して唐朝の首を締めに行っていた中で、新羅の利敵行為によって涙を飲んで軍を撤退せざるを得なかった。 しかしこの時、張文休は山東地区の高句麗遺民たちで登州軍を組織し、山東を中心にした占領地区を守らせた。 利敵行為を起こした新羅軍は無惨に殲滅された。
世宗広城 文皇帝
西暦737年、大欽茂が第4代の帝位に登極した。 大欽茂は文治に尽力し、文化的に大きな発展を成した。 一方では、契丹人 安禄山をけしかけて大唐粉砕戦を試みたが、繰り返される大燕国(西暦756年に安禄山は洛陽を占領して大燕国を建てた後、自ら王位に昇った)の内紛で、結局作戦は失敗に帰してしまった。
東夷の故地 山東半島
山東半島は東夷族と華山族の譲歩できない戦略的要衝地であった。 大欽茂は李正己を遼陽皇に任じて、登州に大高句麗の代表部を設置した。 李正己は山東半島を完全に統一して、唐の対東方貿易を独占した。 大高句麗との交易が増えて両国の発展に大きく貢献したが、一方、唐は李正己の慈悲心に依存しなければならない悲惨な状態に置かれることになった。(この時期、大高句麗と日本との貿易も非常に活発だった。 日本の急激な文化発展はまさにこの時になされた)
* 斉国(李正己の息子 李納が王位に昇ると同時に斉国に改名した)の第4代 李師道は、全国総動員令を下し、唐の東道攻略に乗り出した。 しかし、これも新羅の利敵行為と李師道が殺されることで失敗に終わり、斉国は結局滅びてしまった。 せっかく取り戻した卞朝鮮の青丘の地(山東地区)は、再び華山族に渡ってしまった。
西暦699年、大仲象皇帝に続いて皇位に昇った大祚栄は、この年に改元して天統とし、国号を大震国とした。
昔の高句麗を導いていた高氏たちが積極的に新政府に参加することで、大氏高句麗はすぐに安定を取り戻すようになったが、北国の強力な黒水部との交渉は結局失敗に帰してしまった。 千年にわたる扶餘族(高氏高句麗)に対する恨みが、黒水部が新政府に参加することを拒否した理由だった。
大祚栄は組閣を断行し、太子 大武芸を送って唐と相互承認協定を結んだ後、皇帝の母方のおじである大武芸を駐唐初代大使として派遣した。
西暦719年、祚栄の後を継いで大武芸が帝位に昇った。 皆が新皇帝の即位を祝賀したが、帝位を狙っていた大門芸は逆謀を試み、これに失敗すると唐へ逃げた。 この渦中で逆謀に関わっていた黒水部の可汗イェソクリギが処刑され、これで困難にも民族統一は達成できた。
大唐懲罰戦争
唐懲罰戦を繰り広げるのに先立って、大武芸は唐の同盟国 新羅を牽制するためにコ・イニなどを日本に派遣、同盟を結び、張文休を連合軍総司令官に任命して唐朝の首を締めに行っていた中で、新羅の利敵行為によって涙を飲んで軍を撤退せざるを得なかった。 しかしこの時、張文休は山東地区の高句麗遺民たちで登州軍を組織し、山東を中心にした占領地区を守らせた。 利敵行為を起こした新羅軍は無惨に殲滅された。
世宗広城 文皇帝
西暦737年、大欽茂が第4代の帝位に登極した。 大欽茂は文治に尽力し、文化的に大きな発展を成した。 一方では、契丹人 安禄山をけしかけて大唐粉砕戦を試みたが、繰り返される大燕国(西暦756年に安禄山は洛陽を占領して大燕国を建てた後、自ら王位に昇った)の内紛で、結局作戦は失敗に帰してしまった。
東夷の故地 山東半島
山東半島は東夷族と華山族の譲歩できない戦略的要衝地であった。 大欽茂は李正己を遼陽皇に任じて、登州に大高句麗の代表部を設置した。 李正己は山東半島を完全に統一して、唐の対東方貿易を独占した。 大高句麗との交易が増えて両国の発展に大きく貢献したが、一方、唐は李正己の慈悲心に依存しなければならない悲惨な状態に置かれることになった。(この時期、大高句麗と日本との貿易も非常に活発だった。 日本の急激な文化発展はまさにこの時になされた)
* 斉国(李正己の息子 李納が王位に昇ると同時に斉国に改名した)の第4代 李師道は、全国総動員令を下し、唐の東道攻略に乗り出した。 しかし、これも新羅の利敵行為と李師道が殺されることで失敗に終わり、斉国は結局滅びてしまった。 せっかく取り戻した卞朝鮮の青丘の地(山東地区)は、再び華山族に渡ってしまった。
これは メッセージ 13703 (sugyonjp さん)への返信です.