韓国軽視論←韓国人の参加、大歓迎

Yahoo! Japan 掲示板トピックビューアー

[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

「護国講演」

投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2003/08/17 02:09 投稿番号: [6960 / 49973]
講演内容もさる事ながら、

『人民軍に捕虜として捕まり、歯と手足の爪をすべて抜かれるという凄まじい拷問を受けもした』

という部分に注目してしまいましたな。私は。
こういうタイプの拷問は、初めて目にします。

・・・・・・・・・・・・・・・

42年間で5000回の「護国講演」をした呉錦孫さん




  「国を失った悲しみと同族相残(同じ民族同士の戦い)の悲劇を直接経験し、私が生きていく国と私の国があるということが何より大切であることを知りました」

  これまで42年間、全国の軍部隊や学校をまわりながら「護国講演」をしてきた呉錦孫(オ・クムソン/73/女性)さんは14日午前、中部前線の最前方部隊である陸軍・ペッコル部隊で特別講演をした。光復軍を経て韓国戦争では国軍看護将校として活躍し、銃傷を受けて23歳で除隊、その後から続けてきた講演がこの日で5000回を記録する日だったからだ。

  講演を5000回行うということは、13年間毎日講演をしなければならないほどの回数だ。1日に7回も講演をしたこともあると呉さんは話す。1回講演する度に200キロメートル移動したと考えても、現在まで移動した距離は100万キロメートルと、地球を250回も回った計算になる。

  ペッコル部隊は看護将校出身の呉さんが勤務していた場所。呉さんは最前線のこの部隊を時折訪れては手料理を配り、将兵たちから「ペッコルおばあさん」というあだ名で呼ばれている。

  1930年、中国で光復軍として活動していた際、日本軍の捕虜となりこの世を去った父、呉スアムさんの一人娘だった呉さんは、生後1週間の時に母親もまた日本軍の犠牲になったため、全く見ず知らずの中国人家庭で幼年時代を過ごした。

  呉さんは顔も知らない親が独立運動によってこの世を去った事実を知った後、13歳の時に家を飛び出し、光復軍に志願した。光復(日本の植民地支配から解放された日)を迎えて帰国した呉さんは、開城(ケソン)の看護専門学校を卒業し、開城道立病院の看護婦として新しい人生を歩み始めた。

  なんとか基盤を築きかけた呉さんは韓国戦争が勃発すると、当時の修道士団だったペッコル部隊の看護将校に自主入隊し、中共軍の介入によって後退していた52年4月、破虜(パロ)湖付近の戦闘で人民軍6人を射殺するという軍功を立てた。しかしこれによって人民軍に捕虜として捕まり、歯と手足の爪をすべて抜かれるという凄まじい拷問を受けもした。

  味方の爆撃による混乱の最中に脱出した呉さんは、銃弾が右足を貫通し、腰に破片が突き刺さる重傷を負い、江原(カンウォン)道・華川(ファチョン)の破虜湖付近に死屍累々と横たわる中共軍の遺体の間で10日間、生死の境をさまよった。「黒い物体があったので木の枝かと思って座ったら、焼死した遺体でした。残酷な戦争でした」

  53年の停戦とともに2階級特進(大尉)後、除隊した呉さんは61年のある日、道端で軍人のけんかをとりなし、再び軍との縁を持った。

  「けんかをしていた軍人をつかまえて『味方同士けんかしてどうする。戦争になれば同期がどれほど重要になるか』と立ったまま1時間ほど演説しました。それを見た小隊長に頼まれ、講演をするようになりました」

  尹奉吉(ユン・ボンギル)記念事業会と黄海(ファンフェ)臨時政府の委嘱委員、戦争記念事業会諮問委員を歴任した呉さんは現在、傷痍軍警会・大田(テジョン)支部の講師として活動しながら3日に1回の割合で全国を回り、軍部隊や中・高・大学で護国講演をしてきた。その功績が認められ、92年には国民勲章褒章も受章した。

  これまで『栄光の茨の道』『破虜湖』『60万の大軍が見た破虜湖』の3冊を出版してもいる。

  呉さんは「戦争は起こらないなどと考えてはいけない。今の国の混乱ぶりを国民全員が憂慮し、自重すべきです」と語った。

ユ・ヨンウォン記者

http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/08/15/20030815000018.html
[ << 最初のページ | < 前のページ | メッセージリスト | 掲示板表示 | [ メッセージ # ] | 次のページ > | 最後のページ >> ]

Yahoo! Japan 掲示板 アーカイヴ

[検索ページ] (中東) (東亜) (捕鯨 / 捕鯨詳細)