Re: 慰安婦決議案、オジャンニダ〜
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2007/05/23 00:15 投稿番号: [36955 / 49973]
>アメリカも朝鮮人の扱いには苦労してるようで。(笑)
可哀想だなあ、韓国。(笑)
でも、ウソの決議が米国議会記録に永久保存されなにくて、韓国にはラッキーかも。(笑)
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記者ブログ
朝日新聞記者がみたビルマの慰安婦ーー月の夜に
2007/05/22 12:47
慰安婦の実態はどうだったのか。
1945年4月、敗色の濃い日本軍の統治下にあったビルマの首都ラングーンで朝日新聞記者出身の日本軍人が朝鮮出身の若い慰安婦たちとの遭遇を生き生きと伝えている記録を紹介します。
月がパゴダをこうこうと照らす晴れた夜、若い将校たちが慰安婦たちに声をかけられたときの情景です。
なんともいえないペーソスのなかに人間らしいぬくもりや哀れみが漂う描写です。
書いた人は朝日新聞記者から軍人となり、ビルマ方面軍司令部の報道部員だった沢山勇三中尉、戦後は朝日新聞にもどっています。
このルポは「白旗をかかげて」と題されています。紹介するのはその一部です。
沢山中尉はビルマ方面軍の降伏使節の一員として、それまで敵だったイギリス軍黒猫旅団の指揮官らに投降の交渉のため、面会に出かけていった、その体験を書いています。そのなかで投降の4カ月前のラングーンでの一夜の光景を回想しています。
このルポは「秘録 大東亜戦史ビルマ篇」(富士書苑 昭和28年刊)に記載されています。この本では終戦から8年ほどの時点で戦争中に従軍記者だった人たちがそれぞれの体験を書いています。
沢山氏はこのルポを書いた時点では「朝日新聞整理部次長」という肩書きでした。
なおこのビルマ篇のあちこちに慰安婦に関する記述が出てきますが、従軍慰安婦という言葉は一回も出てきません。
ラングーンの月夜に日本軍将校と言葉を交わす朝鮮女性の慰安婦たちの描写からは「性的奴隷」というイメージは伝わってきません。
「月と慰安婦たち」
(沢山勇三著の「白旗をかかげて」から)
珍らしく雨雲が途切れて、月が顔を見せた。ジャングルの葉ごしに見るビルマの月――月に感傷を托すには、われわれの感情線は固渇しすぎていたがそれでも、その月は私に四月前のラングーン撤退前夜を偲ばせた。
その晩も珍らしく晴れて月がシュエダゴン・パゴダの黄金色の尖端を照らしていた。青い青い月だった。私とも一人大尉は、コンクリートの人道に腰を下して、アスファルトの車道に長々と足を投げ出していた。
向かいあって、四、五人の朝鮮出身の慰安婦がしゃがみ込んでいた。はじめ慰安婦たちは、我々に泊まってゆけとしつこくすすめたのである。「お金なんかどうでもいいんだよ。淋しいから泊っていきなさい」と彼女らは言った。
明日、軍司令部が撤退するというのに、彼女らは何も知らないのである。ただ何か異様な雰囲気だけは感じていたことに間違いはない。客がさっぱりなかった。そこへ夜ふけて将校がふたり現れたのである。金は要らないから泊っていけ。淋しいというのだ。
私の方がどれだけ淋しかったか知れない。慰安所に隣り合って、日本映画社と日本映画配給社の両支局があった。映配の方には、沢山の映画のフィルムがあった。英軍に見付けられて利用されるといけないという報道部長の考えで、これを処分することを支局長に命令してあったが、これを確認するために、われわれ二人が夜中近くになって行ったのだった。フィルムは壕の中へ投げこんで水浸しにしてあった。そして両支局ともさっぱりと片付けてあった。まずこれでよし――そして帰りがけの駄賃の彼女らとの雑談であった。
「タダでもいいよ、朝まで遊んでいきなさい」
私の前にいた二十歳にもなるまいと思われる娘はとうとうそんなにまで言った。太股までむき出しにしたシュミーズ一枚の恰好で、時々蚊をぴしゃぴしゃと叩きつけていたっけ――
あの時、危いから早くラングーンを逃出すようになぜ話してやらなかったか――私はジャングルの月に向って自問自答して見た。そうだ。あのころまでは、私はまだ軍人だった。軍紀がこわかった。――これから俺は人間に返る。――
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/176869/
可哀想だなあ、韓国。(笑)
でも、ウソの決議が米国議会記録に永久保存されなにくて、韓国にはラッキーかも。(笑)
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朝日新聞記者がみたビルマの慰安婦ーー月の夜に
2007/05/22 12:47
慰安婦の実態はどうだったのか。
1945年4月、敗色の濃い日本軍の統治下にあったビルマの首都ラングーンで朝日新聞記者出身の日本軍人が朝鮮出身の若い慰安婦たちとの遭遇を生き生きと伝えている記録を紹介します。
月がパゴダをこうこうと照らす晴れた夜、若い将校たちが慰安婦たちに声をかけられたときの情景です。
なんともいえないペーソスのなかに人間らしいぬくもりや哀れみが漂う描写です。
書いた人は朝日新聞記者から軍人となり、ビルマ方面軍司令部の報道部員だった沢山勇三中尉、戦後は朝日新聞にもどっています。
このルポは「白旗をかかげて」と題されています。紹介するのはその一部です。
沢山中尉はビルマ方面軍の降伏使節の一員として、それまで敵だったイギリス軍黒猫旅団の指揮官らに投降の交渉のため、面会に出かけていった、その体験を書いています。そのなかで投降の4カ月前のラングーンでの一夜の光景を回想しています。
このルポは「秘録 大東亜戦史ビルマ篇」(富士書苑 昭和28年刊)に記載されています。この本では終戦から8年ほどの時点で戦争中に従軍記者だった人たちがそれぞれの体験を書いています。
沢山氏はこのルポを書いた時点では「朝日新聞整理部次長」という肩書きでした。
なおこのビルマ篇のあちこちに慰安婦に関する記述が出てきますが、従軍慰安婦という言葉は一回も出てきません。
ラングーンの月夜に日本軍将校と言葉を交わす朝鮮女性の慰安婦たちの描写からは「性的奴隷」というイメージは伝わってきません。
「月と慰安婦たち」
(沢山勇三著の「白旗をかかげて」から)
珍らしく雨雲が途切れて、月が顔を見せた。ジャングルの葉ごしに見るビルマの月――月に感傷を托すには、われわれの感情線は固渇しすぎていたがそれでも、その月は私に四月前のラングーン撤退前夜を偲ばせた。
その晩も珍らしく晴れて月がシュエダゴン・パゴダの黄金色の尖端を照らしていた。青い青い月だった。私とも一人大尉は、コンクリートの人道に腰を下して、アスファルトの車道に長々と足を投げ出していた。
向かいあって、四、五人の朝鮮出身の慰安婦がしゃがみ込んでいた。はじめ慰安婦たちは、我々に泊まってゆけとしつこくすすめたのである。「お金なんかどうでもいいんだよ。淋しいから泊っていきなさい」と彼女らは言った。
明日、軍司令部が撤退するというのに、彼女らは何も知らないのである。ただ何か異様な雰囲気だけは感じていたことに間違いはない。客がさっぱりなかった。そこへ夜ふけて将校がふたり現れたのである。金は要らないから泊っていけ。淋しいというのだ。
私の方がどれだけ淋しかったか知れない。慰安所に隣り合って、日本映画社と日本映画配給社の両支局があった。映配の方には、沢山の映画のフィルムがあった。英軍に見付けられて利用されるといけないという報道部長の考えで、これを処分することを支局長に命令してあったが、これを確認するために、われわれ二人が夜中近くになって行ったのだった。フィルムは壕の中へ投げこんで水浸しにしてあった。そして両支局ともさっぱりと片付けてあった。まずこれでよし――そして帰りがけの駄賃の彼女らとの雑談であった。
「タダでもいいよ、朝まで遊んでいきなさい」
私の前にいた二十歳にもなるまいと思われる娘はとうとうそんなにまで言った。太股までむき出しにしたシュミーズ一枚の恰好で、時々蚊をぴしゃぴしゃと叩きつけていたっけ――
あの時、危いから早くラングーンを逃出すようになぜ話してやらなかったか――私はジャングルの月に向って自問自答して見た。そうだ。あのころまでは、私はまだ軍人だった。軍紀がこわかった。――これから俺は人間に返る。――
http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/176869/
これは メッセージ 36953 (imp_mania_jk さん)への返信です.
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