明成皇后のハングル手紙ニダ!
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2005/10/28 11:37 投稿番号: [29044 / 49973]
一瞬、モンゴル文字か満州文字かと思った…。
>当時24歳で花盛りの明成皇后
なんつうか…あまり美化しない方がいいと、切に思うぞ。
あの写真も、どうやら本人なのか怪しいらしいし。
でも、「花盛り」のシトが、逃亡先から亭主に指図して舅を追い払おうとしたり、外国の軍隊を背負ってソウルに堂々と帰還したりとか、いやはや、スゴいでつ。(なんか倭国軍が人質として来ていた百済腆支王子を護衛して帰国させ、強引に王位につけた時代と、あまり違ってないよなあ…。古代史と近代・現代史があまり違わないというのも、ウリナラのスゴいところだね。)
閔妃曰く、「日本と閔氏は両立すべきにあらず。土地の若干を他国に失ふとも、日本の仇を復さざるべからず。露西亜は世界の強国にして日本の比に非ず、且つ君権を保護すとの条件あれば之に依頼すべし」 (『日露外交史』沼田市郎著より)
現代語にしてみますた。
「日本と我が閔一族は両立なんぞ出来ないのだ。我が国の土地を多少失ってでも、日本は討たねばならない。ロシアは世界の強国であり、日本とは比較にならない。もしロシアが我が国の王権を認めるならば、ロシアに依存すべきだ」
orz
非国民じゃん?
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明成皇后のハングル手紙2通を公開
政敵だった大院君が失脚(1873年)した直後、明成(ミョンソン)皇后(閔妃/1851−1895)が兄に送ったハングルの見舞状2通が公開された。
乙巳(ウルサ)条約(第2次日韓協約/1905年)直後、自決した閔泳煥(ミン・ヨンファン)の家で代々受け継がれてきたもので、閔泳煥さんの孫ミン・ビョンジンさんが26日、本紙に公開した。あて先の名前が記されていないこの手紙について、ミン・ビョンジンさんは「閔升鎬(ミン・スンホ、1830〜1874)に送った手紙だと聞いている」と述べた。
手紙は中国製とみられる赤と黄色のきれいな色紙にハングルで書かれている。花と蝶の絵に「渭川煙雨、渭川の霧雨」、「當湖東園…、湖東園に着き… 」という文を添えた美しい便せんから、当時24歳で花盛りの明成皇后の嗜好がうかがえる。
しかし、この手紙で明成皇后は不安な気持ちを打ち明けている。大院君の陰から脱したものの、当時の物騒な国内外の政治状況のためであったとみられる。2通とも「(お兄さんの)手紙で今日も無事に朝を迎えたようで何よりです。殿下と皇太子(後の純宗)はお元気そうで幸いですが、私は体と心が痛く、辛く、もどかしいのです」とつづっている。
いつごろ書いた手紙だろうか。日付は書かれていないが、2通とも1874年2月に生まれた純宗について触れている。閔升鎬は1874年に爆死したため、手紙はその年に書かれたものとみられる。明成皇后の手紙は、現在3−4通ほど残っているという。
手紙をやり取りした2人の運命は、いずれも悲劇に終った。大院君の義理の弟で、養子縁組によって明成皇后の兄になった閔升鎬は、高宗の勤王勢力として権勢をふるったが、小包爆弾事件で母親、息子とともに死亡した。当時、この爆弾テロの背後に大院君がかかわっているという噂が広まった。1895年、明成皇后は日本人の刺客に殺害された。
朝鮮日報
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/10/28/20051028000001.html
>当時24歳で花盛りの明成皇后
なんつうか…あまり美化しない方がいいと、切に思うぞ。
あの写真も、どうやら本人なのか怪しいらしいし。
でも、「花盛り」のシトが、逃亡先から亭主に指図して舅を追い払おうとしたり、外国の軍隊を背負ってソウルに堂々と帰還したりとか、いやはや、スゴいでつ。(なんか倭国軍が人質として来ていた百済腆支王子を護衛して帰国させ、強引に王位につけた時代と、あまり違ってないよなあ…。古代史と近代・現代史があまり違わないというのも、ウリナラのスゴいところだね。)
閔妃曰く、「日本と閔氏は両立すべきにあらず。土地の若干を他国に失ふとも、日本の仇を復さざるべからず。露西亜は世界の強国にして日本の比に非ず、且つ君権を保護すとの条件あれば之に依頼すべし」 (『日露外交史』沼田市郎著より)
現代語にしてみますた。
「日本と我が閔一族は両立なんぞ出来ないのだ。我が国の土地を多少失ってでも、日本は討たねばならない。ロシアは世界の強国であり、日本とは比較にならない。もしロシアが我が国の王権を認めるならば、ロシアに依存すべきだ」
orz
非国民じゃん?
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明成皇后のハングル手紙2通を公開
政敵だった大院君が失脚(1873年)した直後、明成(ミョンソン)皇后(閔妃/1851−1895)が兄に送ったハングルの見舞状2通が公開された。
乙巳(ウルサ)条約(第2次日韓協約/1905年)直後、自決した閔泳煥(ミン・ヨンファン)の家で代々受け継がれてきたもので、閔泳煥さんの孫ミン・ビョンジンさんが26日、本紙に公開した。あて先の名前が記されていないこの手紙について、ミン・ビョンジンさんは「閔升鎬(ミン・スンホ、1830〜1874)に送った手紙だと聞いている」と述べた。
手紙は中国製とみられる赤と黄色のきれいな色紙にハングルで書かれている。花と蝶の絵に「渭川煙雨、渭川の霧雨」、「當湖東園…、湖東園に着き… 」という文を添えた美しい便せんから、当時24歳で花盛りの明成皇后の嗜好がうかがえる。
しかし、この手紙で明成皇后は不安な気持ちを打ち明けている。大院君の陰から脱したものの、当時の物騒な国内外の政治状況のためであったとみられる。2通とも「(お兄さんの)手紙で今日も無事に朝を迎えたようで何よりです。殿下と皇太子(後の純宗)はお元気そうで幸いですが、私は体と心が痛く、辛く、もどかしいのです」とつづっている。
いつごろ書いた手紙だろうか。日付は書かれていないが、2通とも1874年2月に生まれた純宗について触れている。閔升鎬は1874年に爆死したため、手紙はその年に書かれたものとみられる。明成皇后の手紙は、現在3−4通ほど残っているという。
手紙をやり取りした2人の運命は、いずれも悲劇に終った。大院君の義理の弟で、養子縁組によって明成皇后の兄になった閔升鎬は、高宗の勤王勢力として権勢をふるったが、小包爆弾事件で母親、息子とともに死亡した。当時、この爆弾テロの背後に大院君がかかわっているという噂が広まった。1895年、明成皇后は日本人の刺客に殺害された。
朝鮮日報
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/10/28/20051028000001.html
これは メッセージ 1 (korea_is_mini_japan さん)への返信です.
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