北関大捷碑を取り返してやるニダ!
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2005/10/12 23:33 投稿番号: [28602 / 49973]
あーあ。
>1905年に日露戦争を起こした日本軍は、この碑石を略奪し、軍国主義の象徴である靖国神社に放置しておいた。 そうすれば壬辰倭乱当時の恥辱を消せると考えたようだ。
いや、そういう恥辱はあったのだろうが、それにしても、日本の諸大名はその直後に関ヶ原に全力を投じている。
敢えて言えば、朝鮮での事は、さほど考えるヒマは無かったんじゃないかな? いや、これは、ワタシの素朴な疑問。
島津兵庫頭も、朝鮮で、国許の兄(修理大夫義久)に、しきりに薩摩の国許を心配する手紙を書き送っている。
ところで前にも書いたかも分からないが、日本は好意でこれを返還するんだ。
そして、韓国じゃ、まるで靖国神社が返還を渋ったかのような報道をしたりもした。そうじゃない。日本政府の指示が無ければ、どうにも出来ないという事だ。
返還式は靖国神社でやるそうだが、きっと韓国は、さも勝ち誇ったかのような、カンチガイ儀式にするつもりだろう。
返してくれる好意よりも、「奪われた」怨念の方がデカいという、日本人の感覚では理解の範疇を超えたクリーチャーだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【噴水台】 北関大捷碑
「ああ、 国が亡びるというのに、どうして家を守り、父の元から息子が離れることができるのか。…力が弱く、城は孤立し、危険ではあるが、名目があり、言葉が正しいので勝てる。つまらない疑心を捨てて強い気持ちを持て」
朝鮮宣祖25年(1592年)壬辰倭乱(文禄の役)が起きて国土が蹂りんされると、咸境道(ハムギョンド)の北評事である鄭文孚(チョン・ムンブ)は、倡義討倭(義兵を起こして外敵を討伐する)という檄文を書いた。 当時、弱冠28歳で、官職(正六品)も低かったが、彼は民の信望を得ていたため、雲のように集まった。
彼の義兵は反逆者から懲戒した。 壬辰倭乱発生3カ月後に加藤清正の軍隊が咸境道を掌握すると、朝鮮王子の臨海君(イムヘグン)と順和君(スンファグン)を捕縛して倭軍に引き渡した連中から処断したのだ。 鄭文孚は続いて、長坪(チャンピョン)・臨溟(イムミョン)・端川(タンチョン)戦闘などで外敵を撃破した。
1593年1月、百塔郊(ベクタプギョ)戦闘では義兵3000人で倭軍2万人を退けた。 加藤は吉州(キルジュ)に孤立した倭軍を助け出すために自ら大軍を率いてきたが、地理を利用した鄭文孚の奇襲作戦に敗走した。 「賤ヶ岳七本槍」、日本最高の武士と呼ばれた加藤も、義兵の知略と勇猛に勝つことはできなかったのだ。
鄭文孚義兵の大小の勝利をまとめて「北関大捷」という。 粛宗時にこれを記念する碑を吉州に建てたが、それが北関大捷碑だ。 碑文の中に「疲弊したところから立ち上がり、逃亡して隠れた連中を奮発させ、ついに完全な勝利を収める」という部分は、忠毅公・鄭文孚の功をよくまとめている。
1905年に日露戦争を起こした日本軍は、この碑石を略奪し、軍国主義の象徴である靖国神社に放置しておいた。 そうすれば壬辰倭乱当時の恥辱を消せると考えたようだ。 その北関大捷碑が100年ぶりに戻ってくる。 民間の絶えない努力と南北の協調が実を結んだのだ。 北関大捷碑はしばらく韓国に展示された後、吉州に戻るという。 「国を憂う熱い心に髪の毛1本1本が白く染まる(丹心憂大国一一髪生痕)」と言った忠義公の祖国愛が、北関大捷碑とともに末永く保存されることを願う。
李相逸(イ・サンイル)国際ニュースチーム次長
2005.10.12 17:35:26
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=68527&servcode=100§code=120
>1905年に日露戦争を起こした日本軍は、この碑石を略奪し、軍国主義の象徴である靖国神社に放置しておいた。 そうすれば壬辰倭乱当時の恥辱を消せると考えたようだ。
いや、そういう恥辱はあったのだろうが、それにしても、日本の諸大名はその直後に関ヶ原に全力を投じている。
敢えて言えば、朝鮮での事は、さほど考えるヒマは無かったんじゃないかな? いや、これは、ワタシの素朴な疑問。
島津兵庫頭も、朝鮮で、国許の兄(修理大夫義久)に、しきりに薩摩の国許を心配する手紙を書き送っている。
ところで前にも書いたかも分からないが、日本は好意でこれを返還するんだ。
そして、韓国じゃ、まるで靖国神社が返還を渋ったかのような報道をしたりもした。そうじゃない。日本政府の指示が無ければ、どうにも出来ないという事だ。
返還式は靖国神社でやるそうだが、きっと韓国は、さも勝ち誇ったかのような、カンチガイ儀式にするつもりだろう。
返してくれる好意よりも、「奪われた」怨念の方がデカいという、日本人の感覚では理解の範疇を超えたクリーチャーだから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【噴水台】 北関大捷碑
「ああ、 国が亡びるというのに、どうして家を守り、父の元から息子が離れることができるのか。…力が弱く、城は孤立し、危険ではあるが、名目があり、言葉が正しいので勝てる。つまらない疑心を捨てて強い気持ちを持て」
朝鮮宣祖25年(1592年)壬辰倭乱(文禄の役)が起きて国土が蹂りんされると、咸境道(ハムギョンド)の北評事である鄭文孚(チョン・ムンブ)は、倡義討倭(義兵を起こして外敵を討伐する)という檄文を書いた。 当時、弱冠28歳で、官職(正六品)も低かったが、彼は民の信望を得ていたため、雲のように集まった。
彼の義兵は反逆者から懲戒した。 壬辰倭乱発生3カ月後に加藤清正の軍隊が咸境道を掌握すると、朝鮮王子の臨海君(イムヘグン)と順和君(スンファグン)を捕縛して倭軍に引き渡した連中から処断したのだ。 鄭文孚は続いて、長坪(チャンピョン)・臨溟(イムミョン)・端川(タンチョン)戦闘などで外敵を撃破した。
1593年1月、百塔郊(ベクタプギョ)戦闘では義兵3000人で倭軍2万人を退けた。 加藤は吉州(キルジュ)に孤立した倭軍を助け出すために自ら大軍を率いてきたが、地理を利用した鄭文孚の奇襲作戦に敗走した。 「賤ヶ岳七本槍」、日本最高の武士と呼ばれた加藤も、義兵の知略と勇猛に勝つことはできなかったのだ。
鄭文孚義兵の大小の勝利をまとめて「北関大捷」という。 粛宗時にこれを記念する碑を吉州に建てたが、それが北関大捷碑だ。 碑文の中に「疲弊したところから立ち上がり、逃亡して隠れた連中を奮発させ、ついに完全な勝利を収める」という部分は、忠毅公・鄭文孚の功をよくまとめている。
1905年に日露戦争を起こした日本軍は、この碑石を略奪し、軍国主義の象徴である靖国神社に放置しておいた。 そうすれば壬辰倭乱当時の恥辱を消せると考えたようだ。 その北関大捷碑が100年ぶりに戻ってくる。 民間の絶えない努力と南北の協調が実を結んだのだ。 北関大捷碑はしばらく韓国に展示された後、吉州に戻るという。 「国を憂う熱い心に髪の毛1本1本が白く染まる(丹心憂大国一一髪生痕)」と言った忠義公の祖国愛が、北関大捷碑とともに末永く保存されることを願う。
李相逸(イ・サンイル)国際ニュースチーム次長
2005.10.12 17:35:26
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=68527&servcode=100§code=120
これは メッセージ 1 (korea_is_mini_japan さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/1835396/4z9q7zbbkoc0a2ab4z9qbfma4nbb22ca1a2bg4bf7de_1/28602.html