だめだめだめ6
投稿者: samurai_03_japanjp 投稿日時: 2005/10/02 23:37 投稿番号: [28279 / 49973]
まずは、文永の役(日本の文永11年・元の至元11年)からいってみよう。
>そこにモンゴル軍人たちより高麗軍がずっと勇猛だったとモンゴルの歴史書である '怨辞'でも記録しているから
東亜さんも仰ってられるが。
『日蓮註画讃』
『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害。』
「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし。」
また、『高祖遺文録』にも
「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし。」
『高麗史節要』
『俘童男女二百人献王及公主。』
また捕らえた女の手に穴をあけて徹したことの記述であるが、
『日本書紀天智帝二年紀』に、『百済王豊璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。』
「百済王豊璋は、鬼室福信に謀反心があるとして、手のひらに穴を穿って革紐をとおして縛った。」
とある。
百済の時代にもあった朝鮮半島伝統の風習らしいね。
確かに、モンゴル兵や女真兵は、ここまで「残虐行為」はやらないよ。
>日本軍たちは高麗-モンゴルの連合軍に敗戦に敗戦を繰り返して多くの人名の損失を経験する.
>新風が日本を救援したと言うことは出たらめな妄想.実際に日本軍人たちは敗戦に敗戦を繰り返した. 完全な火薬さえなくて日本人無事の使った弓は正確度も流れて殺傷力も低かったからそのままおもちゃ水準だったと言われます.
せめて「出典」くらい明らかにしてね。
日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや、
少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、
昼頃には集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に転じているよ。
『八幡大菩薩愚童訓』
百道原より三十町(約3km強)東の赤坂にて菊池武房らの軍勢が元・高麗軍を敗走させているね。
『竹崎季長絵詞』
竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃、上陸地点より5百メートル付近まで押し返した。
さらに後続を待たず先駆けを試み窮地に陥ったところ白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となっている。
『高麗史』
博多でも少弐景資が元将劉復亨を射倒すなど、
海岸付近で激しい矢戦となり戦線は膠着し内陸への侵入を阻止している。
やがて日暮となり戦闘を解し、日本側は大宰府に帰った。
『高麗史節要巻十九、二十五』
一方の、元軍は日本軍の抵抗のため海岸付近より前進できず、
終日の激戦で矢が尽き、日本軍に大損害を与えたものの元の損害も大きく、
軍の編成が崩れた。
戦況を不利とみて大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退したね。
夜中、炎上する箱崎宮より出た白装束の者30人ばかりが矢を射掛けたところ、
元兵は恐怖し夜明けも待たず(朝鮮通信使のころでも夜間の玄海灘渡海は避けていた)
我先にと抜錨し撤退は壊走となり玄海灘で遭難した。
翌日、元の船団は姿を消しており、文永の役は終結する。
元・高麗軍の不還者は1万3500余人とされているよ。『元史』『高麗史』
>そこにモンゴル軍人たちより高麗軍がずっと勇猛だったとモンゴルの歴史書である '怨辞'でも記録しているから
東亜さんも仰ってられるが。
『日蓮註画讃』
『二島百姓等。男或殺或捕。女集一所。徹手結附船。不被虜者。無一人不害。』
「壱岐対馬の二島の男は、あるいは殺しあるいは捕らえ、女を一カ所に集め、手をとおして船に結わえ付ける。虜者は一人として害されざるものなし。」
また、『高祖遺文録』にも
「百姓等は男をば或は殺し、或は生取りにし、女をば或は取り集めて、手をとおして船に結び付け、或は生取りにす。一人も助かる者なし。」
『高麗史節要』
『俘童男女二百人献王及公主。』
また捕らえた女の手に穴をあけて徹したことの記述であるが、
『日本書紀天智帝二年紀』に、『百済王豊璋嫌福信有謀叛心。以革穿掌而縛。』
「百済王豊璋は、鬼室福信に謀反心があるとして、手のひらに穴を穿って革紐をとおして縛った。」
とある。
百済の時代にもあった朝鮮半島伝統の風習らしいね。
確かに、モンゴル兵や女真兵は、ここまで「残虐行為」はやらないよ。
>日本軍たちは高麗-モンゴルの連合軍に敗戦に敗戦を繰り返して多くの人名の損失を経験する.
>新風が日本を救援したと言うことは出たらめな妄想.実際に日本軍人たちは敗戦に敗戦を繰り返した. 完全な火薬さえなくて日本人無事の使った弓は正確度も流れて殺傷力も低かったからそのままおもちゃ水準だったと言われます.
せめて「出典」くらい明らかにしてね。
日本の武士は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや、
少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、
昼頃には集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に転じているよ。
『八幡大菩薩愚童訓』
百道原より三十町(約3km強)東の赤坂にて菊池武房らの軍勢が元・高麗軍を敗走させているね。
『竹崎季長絵詞』
竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃、上陸地点より5百メートル付近まで押し返した。
さらに後続を待たず先駆けを試み窮地に陥ったところ白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となっている。
『高麗史』
博多でも少弐景資が元将劉復亨を射倒すなど、
海岸付近で激しい矢戦となり戦線は膠着し内陸への侵入を阻止している。
やがて日暮となり戦闘を解し、日本側は大宰府に帰った。
『高麗史節要巻十九、二十五』
一方の、元軍は日本軍の抵抗のため海岸付近より前進できず、
終日の激戦で矢が尽き、日本軍に大損害を与えたものの元の損害も大きく、
軍の編成が崩れた。
戦況を不利とみて大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退したね。
夜中、炎上する箱崎宮より出た白装束の者30人ばかりが矢を射掛けたところ、
元兵は恐怖し夜明けも待たず(朝鮮通信使のころでも夜間の玄海灘渡海は避けていた)
我先にと抜錨し撤退は壊走となり玄海灘で遭難した。
翌日、元の船団は姿を消しており、文永の役は終結する。
元・高麗軍の不還者は1万3500余人とされているよ。『元史』『高麗史』
これは メッセージ 28258 (pyeongyang_kim さん)への返信です.
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