>「日鮮同祖論」も日本からパクった
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2005/08/23 12:05 投稿番号: [26364 / 49973]
そういう事ですね。
小磯国昭総督も、熱心な日鮮同祖論者でしたし。
もっとも、北畠親房卿の『神皇正統記』にも、そんな事を言うシトがいたと書かれていますね。
帰化系氏族(「諸蕃」)も、好き勝手に自分の家系を皇族と結び付けたりするので、それを防ぐ為に『新撰姓氏録』は編纂されたとも書かれていますね。
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「異朝の一書の中に、日本は呉の太伯が後なりといふといへり(注1)。かへすがへすあたらぬ事なり。昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが、彼の書を桓武の御代に焼き捨てられしなり。天地開けて後、素戔嗚尊韓の地に到り給ひきなど云ふ事(注2)あれば、かれらの國々も神の苗裔ならん事、あながち苦しみなきにや。それすら昔より用ゐざる事なり。天地神(注3)の御末なれば、なにしか(注4)代下れる呉の太伯が後にはあるべき。三韓震旦(注5)に通じてより以來、異國の人多くこの國に歸化しき。秦の末、漢の末、高麗、百濟の種、それならぬ蕃人の子孫も來りて、神皇(注6)の御末と混亂せしによりて、姓氏録(注7)と云ふ文をも作られき。それも人民にとりての事なるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、異學の輩の云ひ出せる事か。」
注1:『晋書』の四夷傳の中の倭人の条に、「自謂太伯之後」とあります。『晋書』は唐の初期(七世紀初)にできた西晋東晋を通じての史書で、三世紀後半から五世紀前半にかけての王朝の記録です。この倭人の条は、『魏志倭人伝』の抄録のような短い文章で、その中に前記の文言がありますが、これだけが『魏志倭人伝』には無いものです。日本からの使者の誰かが、自分を誇示するためにそう言ったのではないかと、思います。
注2:素戔嗚尊が朝鮮に行った話は、『日本書紀』の本文ではなく「一書では」とされるいくつかの異説を述べた書の四番目の書の中のごく短い記録です。「(高天原から)新羅に行ったが、この地には居たくない、と言って船を造って出雲の国に着いた」とあります。
注3:日本神話の神々。天神地祇。
注4:どうして
注5:三韓は馬韓、弁韓、辰韓(のちの百済、任那、新羅にほぼ相当)。震旦はシナの異称。
注6:日本神話の神々や皇族。
注7:『新撰姓氏録』のこと。
http://www.kenkenfukuyo.org/reki/ormoru/seibo/seibo13.html
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よく、半ケッチャンあたりが、「昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが、彼の書を桓武の御代に焼き捨てられしなり」だけをトリミングして、「ほ〜ら、やっぱり日王はウリ民ジョクニダ」と言いますが、前後を読まないといかんわけですね。
ワタシ流意訳:
「外国(中国)の本の中に、日本は呉の太伯の子孫だと書いてあるそうな。まったくもって、あたらないことだ。日本は三韓と同種だと書かれたものがかつてあったのが、桓武天皇の御世に焼き捨てられたとのことだ。ならば、スサノオノミコトが朝鮮半島にお出でになったという文献もあるので、半島の国々も我が国の神の子孫だという理屈も、あながち苦しいわけではなかろう。しかしそういう理屈さえ、昔から採り上げられることはなかったのだ。天皇は天神地祇のご子孫なので、どうして後世の呉の太伯の子孫だなどとということがあろうか。半島や支那大陸と交通してこのかた、外国の人々がたくさんこの国に帰化した。秦人、漢人の子孫、高句麗や百済の子孫、それ以外の外国人の子孫もやって来て、日本の神々や皇族の子孫と混乱してしまったので、『新撰姓氏録』という書物も作られた。それも、人民の為だと言えよう。外国も、人の考える事はバラバラなので、異なった学問を信奉する者達が言い出した事なのだろうか。」
小磯国昭総督も、熱心な日鮮同祖論者でしたし。
もっとも、北畠親房卿の『神皇正統記』にも、そんな事を言うシトがいたと書かれていますね。
帰化系氏族(「諸蕃」)も、好き勝手に自分の家系を皇族と結び付けたりするので、それを防ぐ為に『新撰姓氏録』は編纂されたとも書かれていますね。
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「異朝の一書の中に、日本は呉の太伯が後なりといふといへり(注1)。かへすがへすあたらぬ事なり。昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが、彼の書を桓武の御代に焼き捨てられしなり。天地開けて後、素戔嗚尊韓の地に到り給ひきなど云ふ事(注2)あれば、かれらの國々も神の苗裔ならん事、あながち苦しみなきにや。それすら昔より用ゐざる事なり。天地神(注3)の御末なれば、なにしか(注4)代下れる呉の太伯が後にはあるべき。三韓震旦(注5)に通じてより以來、異國の人多くこの國に歸化しき。秦の末、漢の末、高麗、百濟の種、それならぬ蕃人の子孫も來りて、神皇(注6)の御末と混亂せしによりて、姓氏録(注7)と云ふ文をも作られき。それも人民にとりての事なるべし。異朝にも人の心まちまちなれば、異學の輩の云ひ出せる事か。」
注1:『晋書』の四夷傳の中の倭人の条に、「自謂太伯之後」とあります。『晋書』は唐の初期(七世紀初)にできた西晋東晋を通じての史書で、三世紀後半から五世紀前半にかけての王朝の記録です。この倭人の条は、『魏志倭人伝』の抄録のような短い文章で、その中に前記の文言がありますが、これだけが『魏志倭人伝』には無いものです。日本からの使者の誰かが、自分を誇示するためにそう言ったのではないかと、思います。
注2:素戔嗚尊が朝鮮に行った話は、『日本書紀』の本文ではなく「一書では」とされるいくつかの異説を述べた書の四番目の書の中のごく短い記録です。「(高天原から)新羅に行ったが、この地には居たくない、と言って船を造って出雲の国に着いた」とあります。
注3:日本神話の神々。天神地祇。
注4:どうして
注5:三韓は馬韓、弁韓、辰韓(のちの百済、任那、新羅にほぼ相当)。震旦はシナの異称。
注6:日本神話の神々や皇族。
注7:『新撰姓氏録』のこと。
http://www.kenkenfukuyo.org/reki/ormoru/seibo/seibo13.html
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よく、半ケッチャンあたりが、「昔日本は三韓と同種なりと云ふ事の有りしが、彼の書を桓武の御代に焼き捨てられしなり」だけをトリミングして、「ほ〜ら、やっぱり日王はウリ民ジョクニダ」と言いますが、前後を読まないといかんわけですね。
ワタシ流意訳:
「外国(中国)の本の中に、日本は呉の太伯の子孫だと書いてあるそうな。まったくもって、あたらないことだ。日本は三韓と同種だと書かれたものがかつてあったのが、桓武天皇の御世に焼き捨てられたとのことだ。ならば、スサノオノミコトが朝鮮半島にお出でになったという文献もあるので、半島の国々も我が国の神の子孫だという理屈も、あながち苦しいわけではなかろう。しかしそういう理屈さえ、昔から採り上げられることはなかったのだ。天皇は天神地祇のご子孫なので、どうして後世の呉の太伯の子孫だなどとということがあろうか。半島や支那大陸と交通してこのかた、外国の人々がたくさんこの国に帰化した。秦人、漢人の子孫、高句麗や百済の子孫、それ以外の外国人の子孫もやって来て、日本の神々や皇族の子孫と混乱してしまったので、『新撰姓氏録』という書物も作られた。それも、人民の為だと言えよう。外国も、人の考える事はバラバラなので、異なった学問を信奉する者達が言い出した事なのだろうか。」
これは メッセージ 26357 (toapanlang さん)への返信です.
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