>台湾高砂族義勇兵
投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2005/06/17 13:31 投稿番号: [23516 / 49973]
1943年の太平洋戦争の東ニューギニア戦線。
第二十師団(京城)中井支隊は、一個師団の豪軍を相手に苦戦をしていた。
豪軍を押し返す目的のケセワ攻撃作戦で、先制攻撃に当たったのは斉藤義勇隊(斉藤俊次中尉)の5隊20人(隊員は168人)。
12月8日未明、豪軍の露営キャンプに潜入して幕舎を爆破、自動小銃を乱射して、遺棄された敵の自動小銃、弾丸などを持てるだけ持って全員無事帰還した。
この義勇隊は将校と下士官が中野学校出身者で占められ、兵は全員が高砂族義勇兵だった。
高砂族は、軍属として主に武器弾薬・食糧の担送に当たっていたが、その中から戦闘要員を現地募集したところ、われもわれもと応募してきた。
田中俊男曹長は中野学校出身で、分隊長。出撃するたびに高砂族の兵2人か3人を連れて行動した。
義勇兵は山地民だからまず健脚である。そして信じられないほど夜目が利いた。
つねに蕃刀を手放さずジャングルの道なき道を切り開き、裸足になって音もなく敵に近づく能力が身についていた。
飢餓との戦いで「生きて帰れぬ地獄の戦場」とまでいわれたニューギニアだったが、彼らはまた狩りの名手で、どこからか野豚やイノシシ、大きな野鳥を仕留めてきてタンパク源補給にも事欠かなかった。
義勇隊の戦死者は遊撃戦ではほとんどなく、一般の部隊と一緒に行動したときに限られていた。
20年5月、ダグア飛行場に潜入して全戦闘機を爆破する戦果も挙げている。
終戦まで旺盛な戦意を失わなかった。
(中略)
鹿児島県在住の土橋和典さん(70)は、自身が台湾育ちなのと亡父が高砂族教化に当たった警察官の一人だった縁で、定年退職後、高砂族との交流を深め、平成6年には、「忠烈抜群・台湾高砂義勇兵」を出版した。
きっかけは、昭和58年の初夏、霧社(むしゃ)の高砂族の一人から亡父あてに届いた一通の招待状だった。
霧社入りした土橋さんは、「土橋理蕃課長さんの息子さんはどなたですか」と呼びかけられ大歓迎を受けて驚く。
盧山温泉での宴会で高砂族の帰還兵たちは、「見よ東海の空あけて」や「我が大君に召されたる」を声高らかに歌ってみせた。
【高砂族】
厚生省の調査では、大戦中に日本統治下の台湾で台湾籍の人たち20万7183人が陸海の軍人・軍属として従軍し、5万3千余が戦死または生死不明になっている。
このうち高砂族からの志願従軍者は約6千人で、その半数が戦没した。
高砂族とは台湾の高地に先住していた十数種の少数民族を総称したもので、当時その総人口は約15万人を数えた。
昭和5年10月27日に霧社で一部種族が反乱を起こし、邦人136人を殺害する事件も起きたが、これを機に総督府が教化に熱を入れたため、馴化が進んだ。
とくに各種族の集落に派遣された警察官たちの熱心な皇民化活動が功を奏し、高砂族は日本人との同胞意識を高めた。
以上、講談社刊「あの戦争」産経新聞社編より、要約。
台湾(高砂族)大阪靖国訴訟については、高砂族の人たちの中にも日本の応援をしている人が多くいるようです。
http://www.eireinikotaerukai.net/E07Board/contents/E0700_08.html
第二十師団(京城)中井支隊は、一個師団の豪軍を相手に苦戦をしていた。
豪軍を押し返す目的のケセワ攻撃作戦で、先制攻撃に当たったのは斉藤義勇隊(斉藤俊次中尉)の5隊20人(隊員は168人)。
12月8日未明、豪軍の露営キャンプに潜入して幕舎を爆破、自動小銃を乱射して、遺棄された敵の自動小銃、弾丸などを持てるだけ持って全員無事帰還した。
この義勇隊は将校と下士官が中野学校出身者で占められ、兵は全員が高砂族義勇兵だった。
高砂族は、軍属として主に武器弾薬・食糧の担送に当たっていたが、その中から戦闘要員を現地募集したところ、われもわれもと応募してきた。
田中俊男曹長は中野学校出身で、分隊長。出撃するたびに高砂族の兵2人か3人を連れて行動した。
義勇兵は山地民だからまず健脚である。そして信じられないほど夜目が利いた。
つねに蕃刀を手放さずジャングルの道なき道を切り開き、裸足になって音もなく敵に近づく能力が身についていた。
飢餓との戦いで「生きて帰れぬ地獄の戦場」とまでいわれたニューギニアだったが、彼らはまた狩りの名手で、どこからか野豚やイノシシ、大きな野鳥を仕留めてきてタンパク源補給にも事欠かなかった。
義勇隊の戦死者は遊撃戦ではほとんどなく、一般の部隊と一緒に行動したときに限られていた。
20年5月、ダグア飛行場に潜入して全戦闘機を爆破する戦果も挙げている。
終戦まで旺盛な戦意を失わなかった。
(中略)
鹿児島県在住の土橋和典さん(70)は、自身が台湾育ちなのと亡父が高砂族教化に当たった警察官の一人だった縁で、定年退職後、高砂族との交流を深め、平成6年には、「忠烈抜群・台湾高砂義勇兵」を出版した。
きっかけは、昭和58年の初夏、霧社(むしゃ)の高砂族の一人から亡父あてに届いた一通の招待状だった。
霧社入りした土橋さんは、「土橋理蕃課長さんの息子さんはどなたですか」と呼びかけられ大歓迎を受けて驚く。
盧山温泉での宴会で高砂族の帰還兵たちは、「見よ東海の空あけて」や「我が大君に召されたる」を声高らかに歌ってみせた。
【高砂族】
厚生省の調査では、大戦中に日本統治下の台湾で台湾籍の人たち20万7183人が陸海の軍人・軍属として従軍し、5万3千余が戦死または生死不明になっている。
このうち高砂族からの志願従軍者は約6千人で、その半数が戦没した。
高砂族とは台湾の高地に先住していた十数種の少数民族を総称したもので、当時その総人口は約15万人を数えた。
昭和5年10月27日に霧社で一部種族が反乱を起こし、邦人136人を殺害する事件も起きたが、これを機に総督府が教化に熱を入れたため、馴化が進んだ。
とくに各種族の集落に派遣された警察官たちの熱心な皇民化活動が功を奏し、高砂族は日本人との同胞意識を高めた。
以上、講談社刊「あの戦争」産経新聞社編より、要約。
台湾(高砂族)大阪靖国訴訟については、高砂族の人たちの中にも日本の応援をしている人が多くいるようです。
http://www.eireinikotaerukai.net/E07Board/contents/E0700_08.html
これは メッセージ 23499 (honkytonk_2002_x さん)への返信です.
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