キヨマサを懲らしめたニダ!
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2005/05/17 18:37 投稿番号: [22187 / 49973]
おいおい。
事実は、主計頭清正が部下に吉州の城を護らせていたら包囲されてにっちもさっちもいかなくなり、上司である清正に援軍を求めて、清正が退路を作ってやって退却できたってやつだわな。
つまり、別に「清正を破った」とは言わない。
まあ、なんだ、レイテ沖で、戦艦大和、長門以下の第一遊撃部隊が、ひょっこりキンケイドの第七艦隊と出くわして、まあ一応護衛空母を撃沈できたのと、同じかな?
>1905年ロ日戦争当時、現地に駐留した日本軍が持ち出し、軍国主義の象徴である東京の靖国神社に放置した。
↑こういう書き方、ゼッタイやめんだろうなあ、未来永劫。(笑)
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北關大捷碑の内容描写
「倡義討倭図」を確認
日本が最近、南北と合意し、返還を約束した「北関大捷碑」の北関大捷(豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、地元の義勇軍が活躍したことをたたえたている)の内容を描いた、18世紀のものと思われる「倡義討倭図」が17日初めて確認された。
北関大捷は、1592年壬辰倭乱(文禄慶長の役)当時、義兵の長・鄭文孚(チョン・ムンブ)将軍が咸鏡(ハムギョン)北道・吉州(キルジュ)で加藤清正が率いる日本軍を破った戦闘。
この場面を描いた「倡義討倭図」は、高麗大学博物館が所蔵している画帳「北関遺跡図帖」に収められている。縦41.2センチ、横31センチの彩色画で、1708年に建てられた北関大捷碑の内容が描かれていることから、18世紀初めの作品と推定される。
絵のなかの、大将旗が立っている物見やぐらには鄭文孚将軍が座っており、城門の向こうには馬に乗って日本軍を追いかけ弓を射る義兵と、矢に射られ倒れた日本軍など、敗退する日本軍の姿が生々しく描かれている。
これまで「倡義討倭図」は名前が取りざたされただけで、実物が確認されたのは今回が初めてだ。 北関大捷碑は1708年、咸鏡道武将の崔昌大(チェ・チャンデ)が建てた。1905年ロ日戦争当時、現地に駐留した日本軍が持ち出し、軍国主義の象徴である東京の靖国神社に放置した。
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者 karma@chosun.com
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2005/05/17/20050517000045.html
これは メッセージ 1 (korea_is_mini_japan さん)への返信です.
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