文革といえば「紅衛兵」
投稿者: usagigamemaimai 投稿日時: 2005/03/29 01:57 投稿番号: [19981 / 49973]
「紅衛兵」といえば、「造反有理、革命無罪」(だったかな・・)
お、あった、あった(いんたーねっとは便利だなぁ♪ 玉石混交だけど・・)
http://www.gameou.com/~rendaico/bunkaku_history1.htm
______________________________________
〜略〜
【「文革」の熱狂、紅衛兵運動が開始される】
「文革」は紅衛兵を生んだ。紅衛兵はまず首都の青少年の間に紅衛兵運動が起こり1966.5月下旬北京に現れた。党と毛沢東への崇拝を天真爛漫に表明し、“毛主席を防衛し”“反修防修”の闘争への参加を熱狂していた。
同年8.1日、毛沢東は青年学生を“文化大革命”を全面的に展開する突撃勢力と考え、清華大学付属中学紅衛兵に手紙を書いた。彼らの行動は“反動派に対する造反には道理があることを示すもの”とその“造反”に支持を表明した。ここから「造反有理、革命無罪(反抗には道理があり、その罪に問わない)」なるスローガンが生まれ、紅衛兵運動は迅速に全国に発展した。
―略ー
たとえば文学者の老舎は、たまたま作家協会の責任者(北京市文聨主席)であったために、つるし上げ(原文=批闘)の対象とされ(8.23日)、二日後に死体で発見される事件も起こった。老舎のほか、作家の趙樹里、京劇俳優の周信芳なども迫害のなかで死んだ。紅衛兵の街頭行動はまもなく上海、天津、杭州、南京、武漢、長沙、南昌など全国各地に急速に拡大した。
紅衛兵の攻撃の対象は5・16通知が述べているものであった。つまり、古い思想、古い習慣、古い文化、古い道徳=四旧であった。彼らはそういうものを全て攻撃した。街にある公園の名前は全て人民公園に変わり、資本家の創設者の名前をもつ商店は「東方紅商店」となった。またこの改名騒ぎは地名、商店名にとどまらなかった。人々は自分の名前すら改名した。「文建民」という若者は自分の名前を忌み嫌って「文造反」とした。李林という女性は李自紅と名のって自分の素性のよさを宣伝した。趙財発は趙衛東に変わり、蒋という名を持っているものは蒋介石と同じ名という事でその蒋という名を捨てた。
文化大革命というのは先ほども述べた通り「四旧」からの離脱であった。古いものから全て抜け出さなくてはいけなかった。だから、紅衛兵たちは古き、封建主義の象徴である寺院を攻撃し始めた。古い石碑や建物はナイフや斧で削られた。また、板で囲まれ、封鎖された。「貴重な中国の財産が、中国古代文化のシンボルが、たった数日でなくなってしまうとは…先人を辱めるつもりか!!」と批判する者もいたが、逆に紅衛兵たちは批判した者を「修正主義者」として批判した。
北京の紅衛兵が旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣(原文=四旧)の打破を叫んで街頭へ初めて繰り出した8.20日を契機として、赤い8月が始まった。1966年末には紅衛兵運動がピークに達した。やがて造反の主流が労働者にとって代わられるようになるまで、66年後半から67年は紅衛兵の天下であった。
こうして授業をやめて革命をやる運動(原文=停課閙革命)と全国的な経験交流(原文=串連)が始まった。11.26日までに毛沢東は天安門楼上から前後8回全国各地から来た紅衛兵を接見したが、その数は1300万に上る。無賃で天安門参りをした紅衛兵たちは、故郷に帰るや「造反有理」のスローガンを武器に、まず学校でついで地方各級の党委員会に造反した。
〜後略〜
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>「文革」という言葉を、ついにかの国の新聞までもが〜
リンクの記事で
>大学間で連帯の動きも見えている。大学が歴史と現実の問題に関心を持つのは当然のことだ。
>しかしこの運動が学問的レベルではなく、もうひとつの社会変革運動のように繰り広げられるとすればそれは危険なことだ。
事態の収拾にどこか動くのかなぁ〜
>そんな大学は結局、文化革命時代の中国の大学に似ていくだろう。
「人の振り見て、我が振り直せ」が通じる相手だと良いのですが。
お、あった、あった(いんたーねっとは便利だなぁ♪ 玉石混交だけど・・)
http://www.gameou.com/~rendaico/bunkaku_history1.htm
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〜略〜
【「文革」の熱狂、紅衛兵運動が開始される】
「文革」は紅衛兵を生んだ。紅衛兵はまず首都の青少年の間に紅衛兵運動が起こり1966.5月下旬北京に現れた。党と毛沢東への崇拝を天真爛漫に表明し、“毛主席を防衛し”“反修防修”の闘争への参加を熱狂していた。
同年8.1日、毛沢東は青年学生を“文化大革命”を全面的に展開する突撃勢力と考え、清華大学付属中学紅衛兵に手紙を書いた。彼らの行動は“反動派に対する造反には道理があることを示すもの”とその“造反”に支持を表明した。ここから「造反有理、革命無罪(反抗には道理があり、その罪に問わない)」なるスローガンが生まれ、紅衛兵運動は迅速に全国に発展した。
―略ー
たとえば文学者の老舎は、たまたま作家協会の責任者(北京市文聨主席)であったために、つるし上げ(原文=批闘)の対象とされ(8.23日)、二日後に死体で発見される事件も起こった。老舎のほか、作家の趙樹里、京劇俳優の周信芳なども迫害のなかで死んだ。紅衛兵の街頭行動はまもなく上海、天津、杭州、南京、武漢、長沙、南昌など全国各地に急速に拡大した。
紅衛兵の攻撃の対象は5・16通知が述べているものであった。つまり、古い思想、古い習慣、古い文化、古い道徳=四旧であった。彼らはそういうものを全て攻撃した。街にある公園の名前は全て人民公園に変わり、資本家の創設者の名前をもつ商店は「東方紅商店」となった。またこの改名騒ぎは地名、商店名にとどまらなかった。人々は自分の名前すら改名した。「文建民」という若者は自分の名前を忌み嫌って「文造反」とした。李林という女性は李自紅と名のって自分の素性のよさを宣伝した。趙財発は趙衛東に変わり、蒋という名を持っているものは蒋介石と同じ名という事でその蒋という名を捨てた。
文化大革命というのは先ほども述べた通り「四旧」からの離脱であった。古いものから全て抜け出さなくてはいけなかった。だから、紅衛兵たちは古き、封建主義の象徴である寺院を攻撃し始めた。古い石碑や建物はナイフや斧で削られた。また、板で囲まれ、封鎖された。「貴重な中国の財産が、中国古代文化のシンボルが、たった数日でなくなってしまうとは…先人を辱めるつもりか!!」と批判する者もいたが、逆に紅衛兵たちは批判した者を「修正主義者」として批判した。
北京の紅衛兵が旧文化、旧思想、旧風俗、旧習慣(原文=四旧)の打破を叫んで街頭へ初めて繰り出した8.20日を契機として、赤い8月が始まった。1966年末には紅衛兵運動がピークに達した。やがて造反の主流が労働者にとって代わられるようになるまで、66年後半から67年は紅衛兵の天下であった。
こうして授業をやめて革命をやる運動(原文=停課閙革命)と全国的な経験交流(原文=串連)が始まった。11.26日までに毛沢東は天安門楼上から前後8回全国各地から来た紅衛兵を接見したが、その数は1300万に上る。無賃で天安門参りをした紅衛兵たちは、故郷に帰るや「造反有理」のスローガンを武器に、まず学校でついで地方各級の党委員会に造反した。
〜後略〜
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>「文革」という言葉を、ついにかの国の新聞までもが〜
リンクの記事で
>大学間で連帯の動きも見えている。大学が歴史と現実の問題に関心を持つのは当然のことだ。
>しかしこの運動が学問的レベルではなく、もうひとつの社会変革運動のように繰り広げられるとすればそれは危険なことだ。
事態の収拾にどこか動くのかなぁ〜
>そんな大学は結局、文化革命時代の中国の大学に似ていくだろう。
「人の振り見て、我が振り直せ」が通じる相手だと良いのですが。
これは メッセージ 19970 (honkytonk_2002_x さん)への返信です.
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