「中国へ片想いし続けるべきか」
投稿者: honkytonk_2002_x 投稿日時: 2004/08/09 20:44 投稿番号: [10323 / 49973]
【噴水台】高句麗
場面1:高句麗(コグリョ)が滅亡した年(668年)から110年後の778年、中国山東省に?青王国が登場する。 『旧唐書』によると、建国者は高句麗人の李正己(イ・ジョンギ)だ。 王国は10万の大軍を率い、勢力は広く山東・安徽・江蘇省一帯に及んでいた。 『資治通鑑』には「隣国が恐れる程だ」と書かれている。 王国は41年で幕を閉じた。
場面2:中国吉林省集安県太王郷九華里には、巨石がある。 6.39メートルという壮大な高さに、重さ37万トンに達する巨大な凝灰岩の石碑。 「広開土王碑」だ。 永楽なる号を持つ広開土大王の征服史は華麗だ。 即位5年(395年)、大王は軍を率いて遼河を渡り、西北方にあった契丹族を撃破した。 即位6年(396年)、百済(ぺクジェ)の王城を陥落させ、即位10年(400年)には歩兵と騎兵、5万を動員し、洛東江(ナクドンガン)流域を攻略した。 永楽14年(404年)、後燕の侵略を受けたが、2年後に報復し、失った土地のみならず、後燕の領土も奪った。 在位17年(407年)、再び5万の大軍を動員し、百済の6つの城を手にした。 在位20年、現在の牡丹江流域にあった東扶餘(トンプヨ)を征伐した。 18歳で即位し、39歳の若さで世を去るまで、大王は64の城と1400の村落を支配下においたと碑文は伝える。
場面3:広開土大王の没後に即位した長寿王(チャンスワン)は、在位15年(427年)、首都を満州の国内城から平壌(ピョンヤン)に移した。 遷都後も勢いは止まることを知らなかった。 後燕の後の北燕とは親密な関係を維持し、北燕が亡ぶと、昭成帝の亡命を受け入れるなど、大陸とともに呼吸していた。 半島では、百済を攻略し、新羅(シルラ)と戦った。 仮に、王が首都を北西の遼東省方面へ移していたならば、高句麗は広開土大王に劣らぬほどの領土拡張が可能だったであろう。
とにかく、山東省・満州・平壌を往来する上の3つの場面のうち、どこまでが我々の高句麗史といえるだろうか。 満州が高句麗の舞台だったという理由のみで、我々の領土だと言い張ることはできまい。 山東省にかつての韓半島の歴史の痕跡が残っているという理由で、この地の歴史を韓国史と決め付けるような馬鹿げた主張をするつもり毛頭ない。 果たして我々が謙虚過ぎるのだろうか。 中国は現在、自分の領土の過去はすべて中国史だと言い張っている。 突如出現した「東北工程」ですらこれほどなのだから、今後本格的に局面が拡散すれば、わい曲の洪水であふれ返るのは火を見るより明らかだ。 それでも我々は中国を「良き隣国」としてひたすら片想いし続けるべきか、よく考える時がきた。
安成奎(アン・ソンギュ)政治部次長
2004.08.09 20:35
http://japanese.joins.com/html/2004/0809/20040809203521100.html
場面1:高句麗(コグリョ)が滅亡した年(668年)から110年後の778年、中国山東省に?青王国が登場する。 『旧唐書』によると、建国者は高句麗人の李正己(イ・ジョンギ)だ。 王国は10万の大軍を率い、勢力は広く山東・安徽・江蘇省一帯に及んでいた。 『資治通鑑』には「隣国が恐れる程だ」と書かれている。 王国は41年で幕を閉じた。
場面2:中国吉林省集安県太王郷九華里には、巨石がある。 6.39メートルという壮大な高さに、重さ37万トンに達する巨大な凝灰岩の石碑。 「広開土王碑」だ。 永楽なる号を持つ広開土大王の征服史は華麗だ。 即位5年(395年)、大王は軍を率いて遼河を渡り、西北方にあった契丹族を撃破した。 即位6年(396年)、百済(ぺクジェ)の王城を陥落させ、即位10年(400年)には歩兵と騎兵、5万を動員し、洛東江(ナクドンガン)流域を攻略した。 永楽14年(404年)、後燕の侵略を受けたが、2年後に報復し、失った土地のみならず、後燕の領土も奪った。 在位17年(407年)、再び5万の大軍を動員し、百済の6つの城を手にした。 在位20年、現在の牡丹江流域にあった東扶餘(トンプヨ)を征伐した。 18歳で即位し、39歳の若さで世を去るまで、大王は64の城と1400の村落を支配下においたと碑文は伝える。
場面3:広開土大王の没後に即位した長寿王(チャンスワン)は、在位15年(427年)、首都を満州の国内城から平壌(ピョンヤン)に移した。 遷都後も勢いは止まることを知らなかった。 後燕の後の北燕とは親密な関係を維持し、北燕が亡ぶと、昭成帝の亡命を受け入れるなど、大陸とともに呼吸していた。 半島では、百済を攻略し、新羅(シルラ)と戦った。 仮に、王が首都を北西の遼東省方面へ移していたならば、高句麗は広開土大王に劣らぬほどの領土拡張が可能だったであろう。
とにかく、山東省・満州・平壌を往来する上の3つの場面のうち、どこまでが我々の高句麗史といえるだろうか。 満州が高句麗の舞台だったという理由のみで、我々の領土だと言い張ることはできまい。 山東省にかつての韓半島の歴史の痕跡が残っているという理由で、この地の歴史を韓国史と決め付けるような馬鹿げた主張をするつもり毛頭ない。 果たして我々が謙虚過ぎるのだろうか。 中国は現在、自分の領土の過去はすべて中国史だと言い張っている。 突如出現した「東北工程」ですらこれほどなのだから、今後本格的に局面が拡散すれば、わい曲の洪水であふれ返るのは火を見るより明らかだ。 それでも我々は中国を「良き隣国」としてひたすら片想いし続けるべきか、よく考える時がきた。
安成奎(アン・ソンギュ)政治部次長
2004.08.09 20:35
http://japanese.joins.com/html/2004/0809/20040809203521100.html
これは メッセージ 1 (korea_is_mini_japan さん)への返信です.
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