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自爆だね

投稿者: ricky_eto 投稿日時: 2005/08/26 17:49 投稿番号: [7564 / 15709]

>スラバヤ事件

  同年十月一日、東部ジヤワの要港スラバヤで竹槍クーデターが勃發した。少數の獵銃や拳銃の外は竹槍で武裝した數千の青年隊が、兵噐爆藥の引渡しを求めて陸海軍部隊に押しかけ、遂に憲兵隊との間に銃火を交へるに到つた。
  この時、柴田彌一郎第二南遣艦隊司令長官は、伊勢參謀等を急派して銃火を停止させ、摩下全部隊に「インドネシア側との交戰を禁じ、やむを得なければ兵噐彈藥を引渡してもよろしい。その責任は長官にある。」と指令して、事實上、兵噐彈藥軍需品の大部をインドネシア側に引渡したのである。

  オランダの海軍大佐ホイエルの仲介もあつて、三日には陸海軍とも、同大佐に降伏して全部の武噐彈藥をイ側に渡したので、これがその後のインドネシアの獨立鬪爭に勝利をもたらす原因となつた。この美事な竹槍クーデターの成功をもたらした影の立役者は海軍主計大尉三毛一到氏であつた。

  彼は終戰後、當時第百二軍需部長であつた島津稜威夫海軍主計少將に具申して、軍需品のイ側への放出許可を受け、牛車延三百臺に及ぶ大量の軍需品を祕密裡に華僑に賣渡し、大型行李七・八個に現金數十億圓をつめたものを、イ内閣の初代財務長官となつたサムシ博士に渡し、獨立運動の資金としたのである。十月一日の竹槍クーデターも實は彼の示唆によるものであつた。

  嚴重な聯合軍の禁令を無視した島津少將や三毛氏のこれらの陰の功勞こそ、スラバヤ事件の眞實の歴史として忘れてはならぬものである。

>スラマン事件

10月に入り連合軍の進駐が進むに連れ、日・イ両軍の対立は双方の情報不足と誤解も加わり一触即発の不穏な状態となりました。10月14日には昼頃より市内在住の日本人軍属・一般邦人がインドネシア青年達により次々と逮捕、拉致され、プルー刑務所(現在は女囚人刑務所)に監禁されました。
15日未明より遂に日・イは交戦状態に入り、双方に死傷者も発生するに及び、青年グループの行動は益々先鋭化し、戦闘により死傷した同胞の仇討ちとばかりに、刑務所に監禁されていた全く無抵抗の日本人に刃を向け、鉄格子越しに機銃掃射、或いは竹槍等で無差別殺戮をはじめました。この惨劇は日本軍救出隊(憲兵隊)が決死の突入をし、イ青年隊を排除した翌16日の夕刻まで続きました。ここで殉難された方々は、中部ジャワ陸輸局員(元国鉄職員)50名を始め、メーカー、商社の派遣員、武装解除された軍人等150余名にも及び、多数の遺体が刑務所沿いのバンジルカナル河にそのまま流されました。
尚救出隊の決死の活躍により、同時に監禁されていた日本人・オランダ人婦女子・混血オランダ人等900人近くが、危うく難を免れ無事解放されました。
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