Re: 受験の邪魔をするニダ!ザマーみろ
投稿者: toapanlang 投稿日時: 2006/02/10 22:21 投稿番号: [11189 / 15709]
>ますます人間的にレベルが低くなっていくような・・・
>神童を数多く生んだ(らしい・・)朝鮮魂はどうした!
いえいえ、昔も似たようなことがございましてなぁ。
己を高めて競争に勝ち抜くのではなく、他者を蹴落として相対的に己の位置を高めるという手です。
李朝の文武の官吏は科挙で登用されておりましたが、以下引用
・・・・・・・
しかし「歴代崇文の弊」は高麗時代から積み重ねられており、国民が「柔弱で武技を好まな」かったのは、丁若𨉷が指摘しているように、厳然たる事実であった。だから武科の大量及第は、政府に確固たる国防幹部要員の充員計画がなく、受験者の多くに、たくましい武人になる意志などなかった状況の中での現象であった。要するに政府は、科挙志望生がいっぱいいる現実を消化するために、臨時の科挙を頻繁に実施して大いに及第者を作るという便法を採ったに過ぎない。彼らはそうした“数でこなす”方策を実施するのに、武科を利用したのである。武科を低くみていたことがよく分かる措置だ。
武科の試験は易しく設定されていた。丁若𨉷の時代だと「十技一講」といって、十種目の武技のうち幾つかと、四書五経、武経七書、経国大典などについての学科試験(講書)が一種目行われるだけだった。しかも、講書は初試にはなく、覆試でだけ課せられることになっており、それとても必ずというわけでもなかったようである。武技の方は弓技が主だった。弓矢の重さ、射程距離、騎乗の有無などで、鉄箭、柳葉箭、片箭、木箭、騎射、貫革といった種目があり、その他は槍や銃、鉄鞭の技を見るものであった。武科でも定期試験である式年試や新王即位の際に行われる増広試の場合は、文武両面にわたり試験科目も多かったが、実施頻度の高い臨時試験の方は、たいてい一科目か二科目の試験ですまされた。それなら文科にパスするのは無理な者も、武科なら及第できるだろうというわけである。」
さまざまな不正行為と弊害
それでも及第に不安なソウルの良家の子弟は、さまざまな不正行為に出た。「撃逐」という暴力を使ったものが、その一つであった。丁若𨉷(茶山)によると、式年試や増広試は試験が難しいだけに、この両試の出身者は他の臨時科挙の及第者に比べ、任用は優先的に扱われた。しかし、実際問題として、両試に地方の人が及第するのはほとんど不可能に近かったという。というのは、北の平安道や南の慶尚道・全羅道から初試に通って上京してきた者には、強健で武技にたけた人間が多いため、それに敵いそうもないソウルの子弟が、無頼の徒を雇ってそれらの受験生を叩きのめし、受験させないようにしたからである。暴力を受けた人間のなかには、一生身体が不自由になったものもあり、郷里に戻ると弓をへし折り、子供に武技など修めるな、と戒めたという。
暴力から逃れることのできた者も、学科試験(講書)で落とされる仕組みになっていた。悪辣なソウルの子弟が試験官に働きかけて、落第点をつけさせるのである。試験官は七人いたが、そのうち一人でも「不」をつければ、たとえ他の六人が最高点「通」をつけても落第という規定になっていたから、陥れるには好都合であったわけである。丁若𨉷は、自身が試験官として、こうしたことを目撃したと書いている。
(田中明 『物語 韓国人』文春新書)
>神童を数多く生んだ(らしい・・)朝鮮魂はどうした!
いえいえ、昔も似たようなことがございましてなぁ。
己を高めて競争に勝ち抜くのではなく、他者を蹴落として相対的に己の位置を高めるという手です。
李朝の文武の官吏は科挙で登用されておりましたが、以下引用
・・・・・・・
しかし「歴代崇文の弊」は高麗時代から積み重ねられており、国民が「柔弱で武技を好まな」かったのは、丁若𨉷が指摘しているように、厳然たる事実であった。だから武科の大量及第は、政府に確固たる国防幹部要員の充員計画がなく、受験者の多くに、たくましい武人になる意志などなかった状況の中での現象であった。要するに政府は、科挙志望生がいっぱいいる現実を消化するために、臨時の科挙を頻繁に実施して大いに及第者を作るという便法を採ったに過ぎない。彼らはそうした“数でこなす”方策を実施するのに、武科を利用したのである。武科を低くみていたことがよく分かる措置だ。
武科の試験は易しく設定されていた。丁若𨉷の時代だと「十技一講」といって、十種目の武技のうち幾つかと、四書五経、武経七書、経国大典などについての学科試験(講書)が一種目行われるだけだった。しかも、講書は初試にはなく、覆試でだけ課せられることになっており、それとても必ずというわけでもなかったようである。武技の方は弓技が主だった。弓矢の重さ、射程距離、騎乗の有無などで、鉄箭、柳葉箭、片箭、木箭、騎射、貫革といった種目があり、その他は槍や銃、鉄鞭の技を見るものであった。武科でも定期試験である式年試や新王即位の際に行われる増広試の場合は、文武両面にわたり試験科目も多かったが、実施頻度の高い臨時試験の方は、たいてい一科目か二科目の試験ですまされた。それなら文科にパスするのは無理な者も、武科なら及第できるだろうというわけである。」
さまざまな不正行為と弊害
それでも及第に不安なソウルの良家の子弟は、さまざまな不正行為に出た。「撃逐」という暴力を使ったものが、その一つであった。丁若𨉷(茶山)によると、式年試や増広試は試験が難しいだけに、この両試の出身者は他の臨時科挙の及第者に比べ、任用は優先的に扱われた。しかし、実際問題として、両試に地方の人が及第するのはほとんど不可能に近かったという。というのは、北の平安道や南の慶尚道・全羅道から初試に通って上京してきた者には、強健で武技にたけた人間が多いため、それに敵いそうもないソウルの子弟が、無頼の徒を雇ってそれらの受験生を叩きのめし、受験させないようにしたからである。暴力を受けた人間のなかには、一生身体が不自由になったものもあり、郷里に戻ると弓をへし折り、子供に武技など修めるな、と戒めたという。
暴力から逃れることのできた者も、学科試験(講書)で落とされる仕組みになっていた。悪辣なソウルの子弟が試験官に働きかけて、落第点をつけさせるのである。試験官は七人いたが、そのうち一人でも「不」をつければ、たとえ他の六人が最高点「通」をつけても落第という規定になっていたから、陥れるには好都合であったわけである。丁若𨉷は、自身が試験官として、こうしたことを目撃したと書いている。
(田中明 『物語 韓国人』文春新書)
これは メッセージ 11188 (amanattousuki2003 さん)への返信です.
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