アル(`ハ´ )掲示板支那の鮮択
投稿者: coreano_raza_infima 投稿日時: 2011/12/30 22:03 投稿番号: [5523 / 6946]
http://japanese.joins.com/article/873/146873.html?servcode=700
ポータルサイトの映画評には「戦争映画の新紀元を実現した大作」「戦争シーンの羅列にうんざりする」などと評価は分かれる。
しかし「どうやって被害者の朝鮮青年が加害者の日本軍将校と友人になれるか」「日本に売ろうと親日映画を作ったのか」という反応も多い。
姜帝圭(カン・ジェギュ)監督の前作「ブラザーフッド(原題『太極旗翻して』)」に例えた「日章旗翻して」というコメントもある。
一部のネットユーザーは「親日映画」という理由で観覧不可運動をしようと主張している。
デイリアン(韓国語) 親日論議'マイウェイ'結局日本興行顔色を見たか(抄訳)
http://www.dailian.co.kr/news/news_view.htm?kind=menu1_code&keys=38&id=272245
(前略)映画<マイウェイ>の主人公は長谷川辰雄(オダギリジョー)とキム・ジュンシク(チャン・ドンゴ
ン)であるが、この二人の競争と友情は歴史的矛盾と状況に合わなかった。この映画は韓国監督
が作ったが、日本映画のようだ。なぜなら長谷川が主人公のようだからだ。キャラクターの側面で
もキム・ジュンシクは平面的だ。内的な悟りが変化しない。だが、長谷川は徐々に性格が変わって
いく。(中略)立体的で現代的なキャラクターの容貌を見せる。感情の変化も豊かで人間的な魅力
まである。
だが、彼の悟りは日本帝国主義の矛盾や侵略行為に対する過ちではなく、自分が部下を死に追
いやったという極めて個人的な次元だ。また、自分の命を救ったキム・ジュンシクに対する感謝の
次元に留まっている。しかもキム・ジュンシクも同じだ。彼は幼い頃、単にかけっこを一緒にできる
友人が欲しかったという感傷的な発言を残す。最後の映像はこれに応じて童心に返る。
だが辰雄は日帝植民支配者、日本軍の家の出身でキム・ジュンシクはその家の召使いの息子だ
った。こういう支配-被支配の矛盾も友情で特に朝鮮人キム・ジュンシクの犠牲で悲しく美しくなる
ばかりだ。辰雄がキム・ジュンシクの成し遂げられなかった夢をかなえるという映画の結論は彼ら
の友情を感動的に描き出すことには成功するが、日帝強制支配期の矛盾をこのような形で扱うこ
とに大衆的な反発は起きざるを得ない。
韓国人が日本人に持っている感情は私的なことだけに留まるのではなく、支配体制に関わるもの
だ。また、個人的に困らせて申し訳ないという謝罪ではなく、全体的な植民地支配体制に対する謝
罪とそれに対する当然な処罰そして被害者に対する補償だ。もし長谷川が植民支配の誤りを批判
したり、さもなければその部分に対する悟りでも映画に込めたならば親日映画論議は起きなかっ
ただろう。
このように映画が作られたのは日本の反応を念頭に置いたからだ。そのためこの映画は初めか
ら日帝の植民支配が正当でないことを批判せず、そのまま容認する中で友情に陥没させてしまっ
た。また、個人、団体的な次元で朝鮮人を困らせたり、マラソンの側面だけで彼らの誤りを批判す
る限界を見せてしまう。
結論が友情の世界マラソン出場とは、日本人たちに免罪符を渡すように感じられる。日本市場で
収益を多くあげるためには、このような戦略が必要なのだろう。韓流もこれと違わない。だが、日
本の顔色を見なければならないのであれば、日帝植民地時期と何が違うのか、とちょっと過激な
考えが導かれる。
私たちは韓流の日本熱風を賛嘆するが、彼らの論理を害する様なことは言えない。お金のため、
生存のためだ。日帝時代にもそうした。笑いでも売って妙技を披露しながら彼らがくれるお金に満
足して生存を模索した。特に韓日の過去の歴史に言及するコンテンツや芸術家・芸能人は日本で
歓迎されるだろうか。それはない。映画やドラマ、ミュージカルも同じことであろう。最初から自ら検
閲するのだろう。映画<マイウェイ>はこのような容疑から抜け出すことはできない。
これは韓流の矛盾で苦々しい。日帝植民期は単純に友情の問題だけで結論を出すことはできな
い重い話題であることを今回も確認できた事例だ。もし、この映画がヨーロッパや米国いや中国で
放映された時、韓国人が日本の植民支配を許したように見えたり、植民支配の不当性を正しく伝
えることはできないだろう。
しかも辰雄がキム・ジュンシクの名前でマラソンに出場した行動で、あたかも朝鮮に対する謝罪と
補償をしたように見られる
ポータルサイトの映画評には「戦争映画の新紀元を実現した大作」「戦争シーンの羅列にうんざりする」などと評価は分かれる。
しかし「どうやって被害者の朝鮮青年が加害者の日本軍将校と友人になれるか」「日本に売ろうと親日映画を作ったのか」という反応も多い。
姜帝圭(カン・ジェギュ)監督の前作「ブラザーフッド(原題『太極旗翻して』)」に例えた「日章旗翻して」というコメントもある。
一部のネットユーザーは「親日映画」という理由で観覧不可運動をしようと主張している。
デイリアン(韓国語) 親日論議'マイウェイ'結局日本興行顔色を見たか(抄訳)
http://www.dailian.co.kr/news/news_view.htm?kind=menu1_code&keys=38&id=272245
(前略)映画<マイウェイ>の主人公は長谷川辰雄(オダギリジョー)とキム・ジュンシク(チャン・ドンゴ
ン)であるが、この二人の競争と友情は歴史的矛盾と状況に合わなかった。この映画は韓国監督
が作ったが、日本映画のようだ。なぜなら長谷川が主人公のようだからだ。キャラクターの側面で
もキム・ジュンシクは平面的だ。内的な悟りが変化しない。だが、長谷川は徐々に性格が変わって
いく。(中略)立体的で現代的なキャラクターの容貌を見せる。感情の変化も豊かで人間的な魅力
まである。
だが、彼の悟りは日本帝国主義の矛盾や侵略行為に対する過ちではなく、自分が部下を死に追
いやったという極めて個人的な次元だ。また、自分の命を救ったキム・ジュンシクに対する感謝の
次元に留まっている。しかもキム・ジュンシクも同じだ。彼は幼い頃、単にかけっこを一緒にできる
友人が欲しかったという感傷的な発言を残す。最後の映像はこれに応じて童心に返る。
だが辰雄は日帝植民支配者、日本軍の家の出身でキム・ジュンシクはその家の召使いの息子だ
った。こういう支配-被支配の矛盾も友情で特に朝鮮人キム・ジュンシクの犠牲で悲しく美しくなる
ばかりだ。辰雄がキム・ジュンシクの成し遂げられなかった夢をかなえるという映画の結論は彼ら
の友情を感動的に描き出すことには成功するが、日帝強制支配期の矛盾をこのような形で扱うこ
とに大衆的な反発は起きざるを得ない。
韓国人が日本人に持っている感情は私的なことだけに留まるのではなく、支配体制に関わるもの
だ。また、個人的に困らせて申し訳ないという謝罪ではなく、全体的な植民地支配体制に対する謝
罪とそれに対する当然な処罰そして被害者に対する補償だ。もし長谷川が植民支配の誤りを批判
したり、さもなければその部分に対する悟りでも映画に込めたならば親日映画論議は起きなかっ
ただろう。
このように映画が作られたのは日本の反応を念頭に置いたからだ。そのためこの映画は初めか
ら日帝の植民支配が正当でないことを批判せず、そのまま容認する中で友情に陥没させてしまっ
た。また、個人、団体的な次元で朝鮮人を困らせたり、マラソンの側面だけで彼らの誤りを批判す
る限界を見せてしまう。
結論が友情の世界マラソン出場とは、日本人たちに免罪符を渡すように感じられる。日本市場で
収益を多くあげるためには、このような戦略が必要なのだろう。韓流もこれと違わない。だが、日
本の顔色を見なければならないのであれば、日帝植民地時期と何が違うのか、とちょっと過激な
考えが導かれる。
私たちは韓流の日本熱風を賛嘆するが、彼らの論理を害する様なことは言えない。お金のため、
生存のためだ。日帝時代にもそうした。笑いでも売って妙技を披露しながら彼らがくれるお金に満
足して生存を模索した。特に韓日の過去の歴史に言及するコンテンツや芸術家・芸能人は日本で
歓迎されるだろうか。それはない。映画やドラマ、ミュージカルも同じことであろう。最初から自ら検
閲するのだろう。映画<マイウェイ>はこのような容疑から抜け出すことはできない。
これは韓流の矛盾で苦々しい。日帝植民期は単純に友情の問題だけで結論を出すことはできな
い重い話題であることを今回も確認できた事例だ。もし、この映画がヨーロッパや米国いや中国で
放映された時、韓国人が日本の植民支配を許したように見えたり、植民支配の不当性を正しく伝
えることはできないだろう。
しかも辰雄がキム・ジュンシクの名前でマラソンに出場した行動で、あたかも朝鮮に対する謝罪と
補償をしたように見られる
これは メッセージ 1 (shibural7 さん)への返信です.
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