ヨーコの話〜検証編
投稿者: tyd_freedom 投稿日時: 2011/07/15 23:54 投稿番号: [5128 / 6946]
http://blog.goo.ne.jp/bosintang/e/856e46f9d9eba890648de1cf4edc32cd
1945年の終戦当時70万人を越えた半島在住日本人の帰還については,森田芳夫氏の労作『朝鮮終戦の記録』に詳細に記述されています。
森田氏は朝鮮に生まれ京城帝国大学を卒業後,総督府に勤務。敗戦に際しては自ら日本人帰還の実務にあたり,現場にいた者の使命感から,この1040ページにおよぶ大著をまとめました。
あとがきに
「日本人の引揚は,南北朝鮮で大きな相違をみせた。南朝鮮の日本軍は米軍の手により二十年十一月下旬までに送還され,一般日本人は,米軍政の手による計画輸送により,二十一年三月にだいたいの引揚を完了した。北朝鮮では,ソ連軍が日本軍を抑留し,三十八度線を封鎖して一般のものの公然の南下を許さなかった。そのため,大多数のものが悲惨な越冬をし,また正式引揚のおくれたことから,三十八度線を越えていわゆる「脱出」による引揚を行い,数多くのいたましい犠牲者を出した。軍人捕虜収容所の死亡者をふくめて,北朝鮮における死亡者総数は三万五千名を越える。戦後の海外日本人の引揚集団中,西北鮮に流入した満州避難民および咸鏡北道避難民は,満州開拓団とともに,最高の死亡率を示している。」
とあります。
ヨーコさんが住んでいた清津,元山では,たとえば次のような報告がある。
「北鮮に侵入せるソ兵は白昼街道にて通行中の婦女を犯す。……元山か清津にては慰安婦の提供を強いられ人数不足なるをくじ引きにて決めたり。日本婦人の全部は強姦せらる。強要せられ自殺せるものも少なからず」(高松宮日記45年10月23日)
略奪,強姦をしたのは朝鮮人ではなくソ連兵であり,被害は朝鮮人にも及んだとのこと。
若槻泰雄『韓国・朝鮮と日本人』(原書房1989)によれば、ソ連軍の婦女暴行は「公然と、また当然のことのように行われ、犯行者は原則として、決して罪が問われることはない……。逃れる方法としては……自殺すること以外には絶対にありえない」。
被害者の手当てをした医師によれば、被害者の「10名に2、3名は舌を噛んで死んでいた」そうです。
満州も同様で,東北接収のため満州に派遣された中国(国府軍)の将軍は「(赤軍)兵士たちは時、所、昼夜かまわず、また日本人、中国人の区別なく婦女を強姦した。このため東北(満州)の各都市では、午後4、5時以降ともなれば、街頭には絶えて人なく、婦女子は恐怖のあまり、頭髪を切り落として男装し自らの貞操を守ろうとする人も多かった…。東北全土、到るところでやり放題」と記し、日本帝国主義より程度が悪い、と評しました。
3000人中半数が死亡した富坪の避難民の状況を調査した咸鏡南道人民委員会検察部,李相北は報告書の中で次のように書いています。
「われわれは三十六年間の日帝の非人間的支配に反発し,逆倒的形態なる日本人全般に対する民族的虐待という,ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたることを自白せざるを得ない。
……富坪避難民の宿舎は,実にのろわれたる存在なり。それは実に煤煙と,あまりの悲惨さに涙を禁じえない飢餓の村,死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐための戸窓はたらず,かますで封鎖され,白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり。それは避難民を救護する宿舎ではなく,のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄図にして,老幼と男女をとわず,蒼白な顔,幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり,足はきかず,立つときは全身を支えることもできず,ぶるぶるふるい,子供たちは伏して泣き,無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており,暗黒の中にせきにむせびつつ,大人が極度に衰弱せる子供を抱いて食物を作りつつ,そこここに座しているのは,実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず。」
一方,38度線の南は平穏でした。
「朝鮮総督府は,在留日本人に対する朝鮮人の報復を恐れ,警察力による朝鮮人の行動の規制を憚ったが,それはほとんど杞憂に終わり,危害を加えられた日本人はきわめて少なかった」(『朝鮮の歴史』朝鮮史研究会,三省堂)
もしヨーコさんが,ソウルや釜山で日本人婦女が朝鮮人によって暴行されたと書いているなら,もしかするとそれは「清津,元山でのソ連兵による暴行」の記憶違いかもしれません。
また,それが38度線の南であった出来事ならば,かなり例外的な事例といえるのではないでしょうか。
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ヨーコの話(竹の森遠く)
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森田氏は朝鮮に生まれ京城帝国大学を卒業後,総督府に勤務。敗戦に際しては自ら日本人帰還の実務にあたり,現場にいた者の使命感から,この1040ページにおよぶ大著をまとめました。
あとがきに
「日本人の引揚は,南北朝鮮で大きな相違をみせた。南朝鮮の日本軍は米軍の手により二十年十一月下旬までに送還され,一般日本人は,米軍政の手による計画輸送により,二十一年三月にだいたいの引揚を完了した。北朝鮮では,ソ連軍が日本軍を抑留し,三十八度線を封鎖して一般のものの公然の南下を許さなかった。そのため,大多数のものが悲惨な越冬をし,また正式引揚のおくれたことから,三十八度線を越えていわゆる「脱出」による引揚を行い,数多くのいたましい犠牲者を出した。軍人捕虜収容所の死亡者をふくめて,北朝鮮における死亡者総数は三万五千名を越える。戦後の海外日本人の引揚集団中,西北鮮に流入した満州避難民および咸鏡北道避難民は,満州開拓団とともに,最高の死亡率を示している。」
とあります。
ヨーコさんが住んでいた清津,元山では,たとえば次のような報告がある。
「北鮮に侵入せるソ兵は白昼街道にて通行中の婦女を犯す。……元山か清津にては慰安婦の提供を強いられ人数不足なるをくじ引きにて決めたり。日本婦人の全部は強姦せらる。強要せられ自殺せるものも少なからず」(高松宮日記45年10月23日)
略奪,強姦をしたのは朝鮮人ではなくソ連兵であり,被害は朝鮮人にも及んだとのこと。
若槻泰雄『韓国・朝鮮と日本人』(原書房1989)によれば、ソ連軍の婦女暴行は「公然と、また当然のことのように行われ、犯行者は原則として、決して罪が問われることはない……。逃れる方法としては……自殺すること以外には絶対にありえない」。
被害者の手当てをした医師によれば、被害者の「10名に2、3名は舌を噛んで死んでいた」そうです。
満州も同様で,東北接収のため満州に派遣された中国(国府軍)の将軍は「(赤軍)兵士たちは時、所、昼夜かまわず、また日本人、中国人の区別なく婦女を強姦した。このため東北(満州)の各都市では、午後4、5時以降ともなれば、街頭には絶えて人なく、婦女子は恐怖のあまり、頭髪を切り落として男装し自らの貞操を守ろうとする人も多かった…。東北全土、到るところでやり放題」と記し、日本帝国主義より程度が悪い、と評しました。
3000人中半数が死亡した富坪の避難民の状況を調査した咸鏡南道人民委員会検察部,李相北は報告書の中で次のように書いています。
「われわれは三十六年間の日帝の非人間的支配に反発し,逆倒的形態なる日本人全般に対する民族的虐待という,ごく無意識のうちにファッショ的誤謬をおかしたることを自白せざるを得ない。
……富坪避難民の宿舎は,実にのろわれたる存在なり。それは実に煤煙と,あまりの悲惨さに涙を禁じえない飢餓の村,死滅の村なり。襲いくる寒波を防ぐための戸窓はたらず,かますで封鎖され,白昼でも凄惨の気に満ちた暗黒の病窟なり。それは避難民を救護する宿舎ではなく,のろいを受くる民族のまとめられた死滅の地獄図にして,老幼と男女をとわず,蒼白な顔,幽霊のようにうごめくかれらは皮と骨となり,足はきかず,立つときは全身を支えることもできず,ぶるぶるふるい,子供たちは伏して泣き,無数の病める半死体はうめきながらかますのなかに仰臥しており,暗黒の中にせきにむせびつつ,大人が極度に衰弱せる子供を抱いて食物を作りつつ,そこここに座しているのは,実に地獄の縮図以外の何ものにもあらず。」
一方,38度線の南は平穏でした。
「朝鮮総督府は,在留日本人に対する朝鮮人の報復を恐れ,警察力による朝鮮人の行動の規制を憚ったが,それはほとんど杞憂に終わり,危害を加えられた日本人はきわめて少なかった」(『朝鮮の歴史』朝鮮史研究会,三省堂)
もしヨーコさんが,ソウルや釜山で日本人婦女が朝鮮人によって暴行されたと書いているなら,もしかするとそれは「清津,元山でのソ連兵による暴行」の記憶違いかもしれません。
また,それが38度線の南であった出来事ならば,かなり例外的な事例といえるのではないでしょうか。
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これは メッセージ 5117 (chosen_kirai さん)への返信です.
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