Re: 或る掲示板猿の選択
投稿者: cuarajhi 投稿日時: 2009/03/12 21:53 投稿番号: [4062 / 6946]
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/01/0901j0309-00004.htm
>ゲバラと米国、そして朝鮮
>[朝鮮新報 2009.3.9]
↑の2部作映画は知らんニダが、
エルネスト・ゲバラの有名な「モーターサイクル日記」を映画化した
Diarios de motocicleta(2004年の米英合作映画だがセリフは西語)は
見たことがあるニダ。アルゼンチンからチリを通ってペルーまでの旅を描いた映画ニダ。
映画ではチリ南部の町テムコ次いでロス・アンヘレスから首都近郊の港町バルパライソ
さらに北上してアタカマ砂漠(銅で有名なチュキカマタ銅山含む)まで登場するニダが、
(ウリはテムコ以外は訪れているニダ)ゲバラが意外?にシャイで純情繊細な青年に描かれていて
後の革命家ゲバラからくる豪放磊落?なイメージ(有名な赤バックの肖像画の影響が大)と落差があったニダ。
テムコの酒場でチリ人人妻にダンスを誘われたゲバラは「ウリはダンスは踊れないニダ、
”何時でもどこでも踊れる高麗人(By シブ猿奴)”とは違うニダ!?」と弱気に答えるが
結局そのチリ女性と踊り、ふとした誤解でその女性から西語最大級の罵倒語の一つ
「コンチェスマドレ!」と罵られてしまうニダ。ついでにゲバラもチュキカマタ銅山で鉱夫頭相手に
これまた最大級の罵倒語の一つ「イホ・デ・プータ!」と罵っていたニダ。
罵倒語の意味はあえて書かないニダが、喩えていうなら日本人に対して「この鮮奴野郎!」と
言うに等しい罵倒効果をもつ言葉ニダ。
ウリは数人のアルゼンチン人の友人達に「ゲバラをどう思うか?」聞いたことがあるニダが、
「ただのテロリスト」と切り捨てる者ばかりだったのには驚いたニダ。
他国でゲバラを英雄と評価する人も世界的には少なくないのは間違いないところニダが、
そんなアルゼンチン人の友人達に「鮮奴民族は世界的評価もただのテロリストにすぎない
安獣根を英雄視している」といったらどういう反応を示すか考えただけでも恐ろしい?ニダ。
チェ・ゲバラのチェは名前ではなくあだなニダが、チェはアルゼンチン人独特の
西語(アルヘンティニスモ)の一つで人への呼びかけに使う言葉ニダ、語源は
パラグアイの先住民族グアラニー族の言葉のche(私)から来ているようニダが、
なぜグアラニー語の”私”がアルゼンチンで呼びかけの言葉になったのかは知らんし
知りたくも無いニダ。(ちなみにグアラニー語で”あなた”はndeンデー)
写真欄に以前にアルゼンチンで入手したゲバラの有名な肖像の絵葉書をアップしておくニダ。
(書かれている西語の意味は「常に勝利へ」)
★ゲバラと日本〜ゲバラは来日していた!
《ゲバラ、訪日時に被爆地・広島を夜行列車でゲリラ的訪問》 [ 07年10月9日 毎日新聞 ]
キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが訪日団の団長として1959年に来日し、広島をゲリラ的に訪問した際、副団長と2人で大阪から夜行列車に飛び乗ったことが9日、分かった。副団長だったオマル・フェルナンデスさん(76)が明らかにした。
フェルナンデスさんは「チェは被爆地・広島訪問を熱望し、私と2人で大阪のホテルをこっそり抜け出し、夜行列車で広島に行ったんだ」と振り返った。
ゲバラは59年1月の革命後、同年6月から3カ月間、アジア・アフリカを歴訪した。訪日団長が当時31歳のゲバラで、副団長を2歳年下のフェルナンデスさんが務めた。7月中旬に来日、10日間滞在し、自動車工場などを視察した。
アルゼンチン出身の医師であるゲバラは、予定になかった広島の被爆地訪問を強く希望したが、日本政府の許可が出なかったという。
業を煮やしたゲバラは大阪のホテルに滞在中、「ホテルを抜け出して広島に行くぞ」と決断。オリーブグリーンの軍服姿で大阪駅で切符を買い2人で夜行列車に飛び乗った。
「被爆者が入院する病院など広島のさまざまな場所を案内され、私同様、チェも本当にショックを受けていた」とフェルナンデスさん。
帰国報告の際にゲバラは、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に「日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだよ」と強く勧めたという。
カストロ議長は03年3月に広島を訪問。フェルナンデスさんは「フィデルはチェとの約束を守ってくれた」と感激した。
※ゲバラは家族にあてた絵ハガキに「広島を訪れ、ますます闘うエネルギーがわいた」と書いた。
※原爆ドーム訪問後にゲバラが通訳に言った言葉「日本はこんなにひどい事をされたのに、アメリカの言いなりになっているのか」。
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何時でもどこでも踊れる高麗人 2003/ 8/29 15:48
投稿者 : shi
>ゲバラと米国、そして朝鮮
>[朝鮮新報 2009.3.9]
↑の2部作映画は知らんニダが、
エルネスト・ゲバラの有名な「モーターサイクル日記」を映画化した
Diarios de motocicleta(2004年の米英合作映画だがセリフは西語)は
見たことがあるニダ。アルゼンチンからチリを通ってペルーまでの旅を描いた映画ニダ。
映画ではチリ南部の町テムコ次いでロス・アンヘレスから首都近郊の港町バルパライソ
さらに北上してアタカマ砂漠(銅で有名なチュキカマタ銅山含む)まで登場するニダが、
(ウリはテムコ以外は訪れているニダ)ゲバラが意外?にシャイで純情繊細な青年に描かれていて
後の革命家ゲバラからくる豪放磊落?なイメージ(有名な赤バックの肖像画の影響が大)と落差があったニダ。
テムコの酒場でチリ人人妻にダンスを誘われたゲバラは「ウリはダンスは踊れないニダ、
”何時でもどこでも踊れる高麗人(By シブ猿奴)”とは違うニダ!?」と弱気に答えるが
結局そのチリ女性と踊り、ふとした誤解でその女性から西語最大級の罵倒語の一つ
「コンチェスマドレ!」と罵られてしまうニダ。ついでにゲバラもチュキカマタ銅山で鉱夫頭相手に
これまた最大級の罵倒語の一つ「イホ・デ・プータ!」と罵っていたニダ。
罵倒語の意味はあえて書かないニダが、喩えていうなら日本人に対して「この鮮奴野郎!」と
言うに等しい罵倒効果をもつ言葉ニダ。
ウリは数人のアルゼンチン人の友人達に「ゲバラをどう思うか?」聞いたことがあるニダが、
「ただのテロリスト」と切り捨てる者ばかりだったのには驚いたニダ。
他国でゲバラを英雄と評価する人も世界的には少なくないのは間違いないところニダが、
そんなアルゼンチン人の友人達に「鮮奴民族は世界的評価もただのテロリストにすぎない
安獣根を英雄視している」といったらどういう反応を示すか考えただけでも恐ろしい?ニダ。
チェ・ゲバラのチェは名前ではなくあだなニダが、チェはアルゼンチン人独特の
西語(アルヘンティニスモ)の一つで人への呼びかけに使う言葉ニダ、語源は
パラグアイの先住民族グアラニー族の言葉のche(私)から来ているようニダが、
なぜグアラニー語の”私”がアルゼンチンで呼びかけの言葉になったのかは知らんし
知りたくも無いニダ。(ちなみにグアラニー語で”あなた”はndeンデー)
写真欄に以前にアルゼンチンで入手したゲバラの有名な肖像の絵葉書をアップしておくニダ。
(書かれている西語の意味は「常に勝利へ」)
★ゲバラと日本〜ゲバラは来日していた!
《ゲバラ、訪日時に被爆地・広島を夜行列車でゲリラ的訪問》 [ 07年10月9日 毎日新聞 ]
キューバ革命の英雄チェ・ゲバラが訪日団の団長として1959年に来日し、広島をゲリラ的に訪問した際、副団長と2人で大阪から夜行列車に飛び乗ったことが9日、分かった。副団長だったオマル・フェルナンデスさん(76)が明らかにした。
フェルナンデスさんは「チェは被爆地・広島訪問を熱望し、私と2人で大阪のホテルをこっそり抜け出し、夜行列車で広島に行ったんだ」と振り返った。
ゲバラは59年1月の革命後、同年6月から3カ月間、アジア・アフリカを歴訪した。訪日団長が当時31歳のゲバラで、副団長を2歳年下のフェルナンデスさんが務めた。7月中旬に来日、10日間滞在し、自動車工場などを視察した。
アルゼンチン出身の医師であるゲバラは、予定になかった広島の被爆地訪問を強く希望したが、日本政府の許可が出なかったという。
業を煮やしたゲバラは大阪のホテルに滞在中、「ホテルを抜け出して広島に行くぞ」と決断。オリーブグリーンの軍服姿で大阪駅で切符を買い2人で夜行列車に飛び乗った。
「被爆者が入院する病院など広島のさまざまな場所を案内され、私同様、チェも本当にショックを受けていた」とフェルナンデスさん。
帰国報告の際にゲバラは、フィデル・カストロ国家評議会議長(当時は首相)に「日本に行く機会があれば、必ず広島に行くべきだよ」と強く勧めたという。
カストロ議長は03年3月に広島を訪問。フェルナンデスさんは「フィデルはチェとの約束を守ってくれた」と感激した。
※ゲバラは家族にあてた絵ハガキに「広島を訪れ、ますます闘うエネルギーがわいた」と書いた。
※原爆ドーム訪問後にゲバラが通訳に言った言葉「日本はこんなにひどい事をされたのに、アメリカの言いなりになっているのか」。
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何時でもどこでも踊れる高麗人 2003/ 8/29 15:48
投稿者 : shi
これは メッセージ 1 (shibural7 さん)への返信です.
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