日本人移民 追記
投稿者: coreano_raza_infima 投稿日時: 2005/02/05 00:15 投稿番号: [2704 / 6946]
「・・青年海外協力隊。日本から海外に送り出される人たちで、これほど評判よく、
また実際に日本のイメージ向上に役立っている例は少ないのではないか。戦後日本外交の
最大のヒットといってもよい。毎年約900人の青年が2年任期で途上国40ヶ国に行き、
その国の民生、産業に手を貸している。天然痘を世界から絶滅するのにも青年海外
協力隊が多大な貢献をした・・・」(朝日新聞論説主幹 松山幸雄氏)
今年は青年海外協力隊の最初の第一陣が海外に派遣されて40周年の節目になっりますが、
初期の頃のフィリピン派遣隊員の話にこんなのがありました。フィリピン派遣の隊員達は
現地の対日感情の悪いことを想像していたそうですが、多くの隊員は「思ったほど対日感情の
悪くないことに驚いた」「着任当時感じた危機感は取り越し苦労だった」そうです。
ここでもやはり南米と同じく日本人移民が築き上げてきた現地での日本人のイメージの良さが
フィリピンでの反日感情を和らげるのに大きく作用したのでした。
「戦後33年という数字はフィリピンでも日本でも変わりないはずだ・・・もう一つ
隊員が驚くのは、にもかかわらずフィリピン人が彼らを暖かく受け入れてくれることだ。
”あれは過去のことだ”とむこうから言ってくれることが多い。だから隊員の感情も決して
屈折したものにはなっていない。多くの人は、これをフィリピン人の持つ陽気さ、親切さの
せいだという。あるいは、明治時代からフィリピンに入り誠意と勤勉さでフィリピン人の
信頼を勝ち得てきた日本人移民の功績をあげる人も多い。実際、第一次隊がマウンテン州に
派遣が決まったのは、当時、州開発議会議長だった日系二世の浜田氏の尽力があったからこそ
だという。さもなければ当時あれほど反日感情の強かったフィリピンへの派遣は不可能
だったかもしれない」(「これが青年海外協力隊だ」 三浦朱門監修 三修社)
同じ本には当時のフィリピンに派遣された隊員の声もありました。
「任地の町の人々の言葉 ①オイ、コラという言葉、軍歌を少し覚えている
②「ちはやぶる」という枕言葉を現地の人の子供の名前につけていった人がいる
③旧日本軍の悪事を、やったのはKoreanだった、と気持ちのすり替えをしている」
「私の知人のマヌエル氏は戦時中日本兵に軍刀で首を切られ、いまでも大きな傷跡があります。
当然のこととして、日本人をよく思っていないと思っていたのですが、私が単車を盗まれたり
ピストル強盗にやられた時、「フィリピン人は君になんて悪いことをするんだ!気が済むまで
俺を殴ってくれ」と真剣に言って私の前に顔を差し出したのです。私は胸が熱くなりました」
「職業柄、普段接する人に高等教育を受けた人が多く、戦争のことに触れるのは友好上
まずいと考えるせいか、あまり戦争の話はでませんでした。しかし、私を娘のように
可愛がってくれた夫妻がいたのですが、その奥さんの従兄は日本軍に殺されたそうです。
フィリピンでは従兄といえば兄弟のように近い間柄なのに、なぜこんなにも私に親切に
してくれるのかと不思議な気がしたものです」
ウソ八百並び立ってまで執拗に執念深く日本に謝罪・賠償を請求するどこかの民族とは
雲泥の違いですね。
--------------------
初等学校(猿島の小学校に当たる)
2001/11/ 2 16:11
投稿者: shibural7 (男性/kr)
5年生の時の私の成績
国語40点
算理40点、
、
、
、
580人のうち565位
社会人になった今、人より社会的地位もかなり低く貧乏。知的にも韓国人平均よりずっと下回る。
所謂下流層の者で劣等感を持ったりする。
同じ年代の友達は幾つかの外国語を流暢に話すが私は普通誰も勉強しない日本語が少し分かる位で韓国語(これも人より上品にも論理的にも話せない)以外は全く無知。偶に馬鹿にされたりもする。
しかし、私は、ここの猿ヤフー韓国カテに来てから生まれ変わった。生きてて良かったな〜って思うようになった。劣等感を感じなくなった。もう韓国人には二度と会いたくない。あ〜とっても幸せだ!
また実際に日本のイメージ向上に役立っている例は少ないのではないか。戦後日本外交の
最大のヒットといってもよい。毎年約900人の青年が2年任期で途上国40ヶ国に行き、
その国の民生、産業に手を貸している。天然痘を世界から絶滅するのにも青年海外
協力隊が多大な貢献をした・・・」(朝日新聞論説主幹 松山幸雄氏)
今年は青年海外協力隊の最初の第一陣が海外に派遣されて40周年の節目になっりますが、
初期の頃のフィリピン派遣隊員の話にこんなのがありました。フィリピン派遣の隊員達は
現地の対日感情の悪いことを想像していたそうですが、多くの隊員は「思ったほど対日感情の
悪くないことに驚いた」「着任当時感じた危機感は取り越し苦労だった」そうです。
ここでもやはり南米と同じく日本人移民が築き上げてきた現地での日本人のイメージの良さが
フィリピンでの反日感情を和らげるのに大きく作用したのでした。
「戦後33年という数字はフィリピンでも日本でも変わりないはずだ・・・もう一つ
隊員が驚くのは、にもかかわらずフィリピン人が彼らを暖かく受け入れてくれることだ。
”あれは過去のことだ”とむこうから言ってくれることが多い。だから隊員の感情も決して
屈折したものにはなっていない。多くの人は、これをフィリピン人の持つ陽気さ、親切さの
せいだという。あるいは、明治時代からフィリピンに入り誠意と勤勉さでフィリピン人の
信頼を勝ち得てきた日本人移民の功績をあげる人も多い。実際、第一次隊がマウンテン州に
派遣が決まったのは、当時、州開発議会議長だった日系二世の浜田氏の尽力があったからこそ
だという。さもなければ当時あれほど反日感情の強かったフィリピンへの派遣は不可能
だったかもしれない」(「これが青年海外協力隊だ」 三浦朱門監修 三修社)
同じ本には当時のフィリピンに派遣された隊員の声もありました。
「任地の町の人々の言葉 ①オイ、コラという言葉、軍歌を少し覚えている
②「ちはやぶる」という枕言葉を現地の人の子供の名前につけていった人がいる
③旧日本軍の悪事を、やったのはKoreanだった、と気持ちのすり替えをしている」
「私の知人のマヌエル氏は戦時中日本兵に軍刀で首を切られ、いまでも大きな傷跡があります。
当然のこととして、日本人をよく思っていないと思っていたのですが、私が単車を盗まれたり
ピストル強盗にやられた時、「フィリピン人は君になんて悪いことをするんだ!気が済むまで
俺を殴ってくれ」と真剣に言って私の前に顔を差し出したのです。私は胸が熱くなりました」
「職業柄、普段接する人に高等教育を受けた人が多く、戦争のことに触れるのは友好上
まずいと考えるせいか、あまり戦争の話はでませんでした。しかし、私を娘のように
可愛がってくれた夫妻がいたのですが、その奥さんの従兄は日本軍に殺されたそうです。
フィリピンでは従兄といえば兄弟のように近い間柄なのに、なぜこんなにも私に親切に
してくれるのかと不思議な気がしたものです」
ウソ八百並び立ってまで執拗に執念深く日本に謝罪・賠償を請求するどこかの民族とは
雲泥の違いですね。
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初等学校(猿島の小学校に当たる)
2001/11/ 2 16:11
投稿者: shibural7 (男性/kr)
5年生の時の私の成績
国語40点
算理40点、
、
、
、
580人のうち565位
社会人になった今、人より社会的地位もかなり低く貧乏。知的にも韓国人平均よりずっと下回る。
所謂下流層の者で劣等感を持ったりする。
同じ年代の友達は幾つかの外国語を流暢に話すが私は普通誰も勉強しない日本語が少し分かる位で韓国語(これも人より上品にも論理的にも話せない)以外は全く無知。偶に馬鹿にされたりもする。
しかし、私は、ここの猿ヤフー韓国カテに来てから生まれ変わった。生きてて良かったな〜って思うようになった。劣等感を感じなくなった。もう韓国人には二度と会いたくない。あ〜とっても幸せだ!
これは メッセージ 2695 (CDU_CSU さん)への返信です.
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