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ウリナラ、マンセー!!番外編

投稿者: coreano_raza_infima 投稿日時: 2004/11/14 22:25 投稿番号: [2455 / 6946]
(出所:日本アルゼンチン協会会報『アルヘンティーナ』第38号)
1898年日本アルゼンチン修好通商航海条約を署名してから1920年にかけて日本人が
アルゼンチンに続々と移住した。その中にまずブラジル、ペルーに移住したが、
こと志と違ってうまくゆかず、アルゼンチンへ転住したものがかなりの数に上ることは注目される。
それもそのはず1900年初頭、第一次世界大戦前後のアルゼンチンは欧州への農産物供給国として
確固たる地位を築いており、GNP世界第3位(日本6位)、自動車所有率も同じく世界第3位の
先進文明国だったのである。
1910−1945年、第二次世界大戦の敗戦までのアルゼンチンでの日本人移住者の活躍は
まさに胸のすく思いがする。日露戦争に勝った日本は世界の一等国であり、
アルゼンチンで活躍する日本人もまた一等国の誇りと覇気をもってアルゼンチンの大地に
活躍をしたのである。この頃の日本人はまさに堂々として、屈託がなく人間的であり、
しかも自分の義務責任をしっかり把握して猛烈に働き、勉強努力している。
戦後の日本で育った我々はこの部分を何度も読み返して
日本人としての誇りを忘れないようにしたいものである。
アルゼンチンで日本人がはじめた新しい産業は、「カフェ」、「花づくり」、
「野菜づくり」、「漁業」、「洗濯店」などで、とくに花づくり、野菜づくり、
漁業はまさにアルゼンチンではじめて日本人が日本の優秀な技術をもってやりだした産業である。
チャコ、ミシオネス、メンドーサなどの地方の開拓においても、オロ   ブランコ(綿)、
オロ   ベルデ(マテ茶)、紅茶、果樹栽培などで成功し、特に紅茶は静岡県出身の渡辺雄二氏が
故郷の茶生産技術を適用工夫しながらアルゼンチンで初めて栽培に成功したものである。
これらの産業は今でもアルゼンチンで盛んに行われておるのだから、戦前の日本人が、
現在のアルゼンチン経済に多大なる貢献をしたことは間違いない。
1941年太平洋戦争が始まると日本は経済封鎖を受けて原料物資の入手が困難となったが、
なんとボリビアの錫はそのときすでに数年分手当て済み、シンガポール進攻の際に必要だった
マラリヤの薬キニーネもボリビアから入手し、これらの買い付けに在アルゼンチンの
日本商社が協力したのも驚きである。
アルゼンチンは第二次世界大戦の時、世界で一番最後に枢軸国(日本、ドイツ)と断交・宣戦布告を
行った国である。断交したのは1944年1月27日、それから一年二ヵ月後の1945年3月27日に
日本とドイツに対し宣戦を布告した。最後まで厳正中立を守らんとしたが、その当時国際連合の
設立に際して、宣戦布告をしないと国際連合に入れないと英米にいわれて
やむを得ずそうしたのであり、日本と戦いをするつもりは毛頭無かった。
日本の敗戦とともに、それまで日本人移住者がアルゼンチンで培った有力な産業、
事業、日本人学校などの文化活動はほぼ全部閉鎖、接収となったが、その中にもアルゼンチンの
日本人に対する畏敬の念から温情的扱いがあり、
戦後復活継続できたものが多いことは特筆すべきである。
アルゼンチン、ブルサコ公認在亜小学校、鈴木旦而教諭の1945年8月15日の日記。(翌日学校は閉鎖)
「朝ラヂオを聞く。東洋平和を祈念世界人類の福祉を計り米英に宣戦す。
一億の臣民は前線にまた銃後にその職分を完ふす。而して敵は人類の滅亡をはかり原子爆弾を使用す、
あまつさえ露国は吾に宣戦を布告す。
事ここに至りこの上無この民を殺戮するに忍びず、ポツダム宣言を受諾す。」
アルゼンチンには終戦までしっかりした情報が流れていた証拠である。
そして鈴木教諭の敗戦に対する態度。これもアルゼンチン日本人移民史の
1ページとして忘れてはならないことである。
これからの日本人にアルゼンチンで活躍した我々の先輩の魂が理解され、
後に続く人材が続出せんことを祈って筆を置く次第である。
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